東京石桜同窓会の起原
 
  東京石桜同窓会の起原は、昭和11年に「在京岩中同窓会」として開催したのが起原である。
 
     第1回 在京岩中同窓会
        日 時 昭和11年10月24日 午後6時より
        場 所 不明
 
        来賓出席 鈴木 卓苗前校長
             佐々木 哲郎校長
             太田 定康 顧問(英語 嘱託教諭)
 
           在京同窓生 顧 問
         
  第1回生  11名  内出席者       三田 義一  (理事長)
  第2回生  9名    々       太田 達人  (数学 教諭)
  第3回生  13名    々       太田 定康  (英語 教諭)
  第4回生  19名    々         南部 五郎  (英語 教諭)
  第5回生  8名    々       灰野 文平  (英語 教諭)
  第6回生  8名    々         梅原 儀太郎 (数学 教諭)
         
   
       ※ 「石桜」昭和12年発行より転載
        本田耕禅(第1回生)等の尽力により呱々の声を揚げたの記載有
 
        第2回 在京岩中同窓会
         日 時 昭和12年11月3日
         場 所 不明
 
 
 
  在京岩中同窓会より佐々木哲郎校長宛の書簡に
  上京中の母校弓道部相神宮選手を相迎へ・・と記載ある。
 
 この当時岩中弓道部は、天下無敵であった。
 
 
 
 
 旧制二高在学中の三田循司(第5回生)よりの書簡有
 
   諸先生方御變りなく候や
   高橋先生、白井先生、五十嵐先生、牟岐先生、山中先生
   吉田先生、主濱先生、佐藤先生、小笠原先生、高橋先生
   工藤先生には宜しく。
   先生初め、諸先生の御健康を祈上候 敬白
    十一月二十六日  三田循司
   佐々木哲郎先生
         侍史
     
 
 

三田循司
   ※三田循司について(東京帝国大学、太宰治との交流、太宰よりのハガキ発見)
   岩中から旧制二高、東京帝国大学(現東京大学)と進学し、東京都文京区本郷区弥生町(当時住所)
  鈴木館に下宿していた三田循司は、詩を通じて太宰治と親しくなった。
   三田は大学卒業後、徴兵し歩兵第105連隊に入営したが、昭和18年5月29日残念ながら戦地アッツ島で
   玉砕した。
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                        ※ 昭和13年3月3日発行 「石桜」より引用
 
     
     これ以降の記録はみつけることができませんでした
     理由は昭和12年に日中戦争が始まり、昭和16年には第二次世界大戦が勃発し、社会情勢は
     戦争一色になり在京岩中会は開催できなかったのでは・・・
 
  「東京岩中会」として再出発」
 
  終戦後、東京岩中会が復活して、第1回の会合を開いたのは、昭和26年の秋だった。
  当時大学生であった藤村義三、小山勝、有原隆司、佐藤正也(新1回生)が主になって在京同窓生の
  名簿作成という面倒な仕事を完成し、松田巌雄(旧1回生)幹事長の助言と会長である三田義一理事長の
  援助とによって復活第1回の会合を開いた。
 
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  昭和26年~昭和36年迄11年間に合計21回開催してきた「東京岩中会」は昭和37年頃から
  三田義一理事長の高齢化による身体の不調と担当卒業生が転勤などにより不在状態が続いたこと等で
  その後22年間会は開催されていない。
 
  「東京石桜同窓会」として再々出発
 
  第4代校長、山中順三先生が退任後、千葉県我孫子に在住されていたが、首都圏にかなりの卒業生が
  居るのにもかかわらず、同窓生の会合が開かれていないことに寂しさを感じられ
  昭和58年夏、旧17回生の雪ノ浦弘、新8回生の近津義一の両氏を自宅に招き、同窓会を開くよう
  指導された。
 
  同時に山中先生は自らの主張である「自由と独立」の精神から、「東京岩中会」を発展的に解消し
  名称を「東京石桜同窓会」とするよう示唆された。
  したがって「東京石桜同窓会」の生みの親は山中順三先生である。
 
  第1回 東京石桜同窓会 
             昭和58年11月6日 ギヤラリー新宿店 世話人代表 雪ノ浦弘(旧17回生後期)
 
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