三田循司について |
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岩中最初の東京帝国大学(現東京大学)入学者である三田循司 |
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岩中から旧制二高、東京帝国大学(現東京大学)と進学し、東京都文京区本郷区弥生町(当時住所) |
鈴木館に下宿していた三田循司は、詩を通じて太宰治と親しくなった。 |
三田は大学卒業後、徴兵し歩兵第105連隊に入営したが、昭和18年5月29日残念ながら戦地アッツ島で |
玉砕した。 |
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三田の死後、太宰は三田を主人公にした短編「散華」を書き |
昭和19年3月号の「新若人」に発表している。 |
「散華によると、太宰は最初、三田の詩をあまり高く評価していな かったらしい。 |
しかし、大学を卒業してすぐに出征した三田は、太宰に何通かの |
便りを送った。 |
その最後の1通に、太宰は心の底から感動した。 |
アッツ島からのその葉書には、つぎの文章が書かれていた。 |
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お元気ですか。 |
遠い空から御伺いします。 |
無事、任地に着きました。 |
大いなる文学のために、 |
死んで下さい。 |
自分も死にます。 |
戦争のために。 |
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この便りのあと、三田循司はほんとうにアッツ島で散華した。 |
そした、この便りこそ最高の詩ではないかと、太宰は年少の友の死をいたんでいる。 |
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太宰治から三田循司宛の未発表の葉書発見 |
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発見した葉書の1枚 |
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発見までの経緯 |
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平成21年4月24日、石桜同窓会事務局担当の川村康嗣二先生(新24回生)から |
同窓会HP担当の赤澤 征夫(新9回生)に1通のメールが届いたから始まりました。 |
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内容は、NHK大阪支局(制作局)の小川さんから、本年は太宰治生誕100周年の年なので特集番組を |
作成したいので、三田循司に関する情報提供を求められたの事でした。 |
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川村先生からは以下について報告したとの連絡を後日ありました。 |
我が校最初の東大進学者であること。 |
顔写真を送ったとのこと。 |
盛岡タイムスに三田循司に関する記事があり、その記事を書いたのは浦田敬三氏で学校の |
旧講師(S27.6.7~28.3.31国語教師) |
太宰治が三田循司が戦死しのを知り「散華」を書いた。 |
何で知ったかはS18.8.29の朝日新聞(国会図書館、マイクロフィルムで) |
盛岡でのもう一つの情報収集は盛岡てがみ館(担当船越さん)であること。 |
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後日資料があまれり集まらなかったのでこの企画しは中止にになったとの連絡があった。 |
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HPの担当としては、偉大な先輩三田循司を是非HPの「温故知新」覧で是非紹介したく |
独自に資料収集を開始した。 |
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www.sekiou-ob.com/newmitajunji/top.html 参照
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1948年(昭和23年)6月13日に自殺した小説家太宰治のいた遺体が発見されたのは |
6月19日で奇しくも太宰39回目の誕生日に発見された。 |
この日は彼が死の直前に書いた短編「桜桃」にちなみ「桜桃忌」と名付けられた。 |
「桃源忌」は毎年、太宰の菩提寺東京、三鷹の禅林寺で行われている。 |
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