校歌作製時に関して 石桜70年史22ページより引用 昭和3年1月2日、かねて依頼していた校歌の歌詞が土井晩翠から送られてきた。申し分のない出来ばえで、鈴木校長はよほど気に入ったものとみえさっそく筆をとって校歌全節を日記帳に書きうつしている。 曲の完成は同年1月23日、山田耕筰の手になった。生徒に歌わせてみるとじつに雄麗軽快な曲調であった。ただ4番の出だしの歌詞がやや曲になじまないので、鈴木校長みずから手を加えて現在のものに直したという。 晩翠作では 「無言のさとし空を衝く 岩手の山の七千尺 北上川の八十里」 であったのを、鈴木校長は 「無言のさとし朝夕に 七千尺の岩手山 北上川の八十里」としたのである。 また、創立時に制定された校規3大綱領(3綱)の「積慶」「重暉」 「養正」は『日本書紀』 の神武東征のくだりが出典である。さらに言えば、『日本書紀』よりおよそ250年前に編纂された中国の史書『後漢書』にも用例がみられる。 鈴木校長は朝礼訓話の際、幾度となくこの3綱について語った。 「私は本校校歌を作成する時に、作者の土井先生に、本校校風の3大綱領たる重暉と積慶と養正の3つをその中に読込むように申入れたら、先生は詩人であるから、之を取直して神と祖国と人道の3つに言い替えられた次第である。即ち重暉は朝日の輝きであって、神の威徳の表徴であり、積慶は我が国歴代聖徳の余沢であって、之によって皇室と国民との繁栄を意味し、養正 の正は正義の正に当り、世界人道の根底を為すところのものである。 この三つの語は本校校風の3大綱領を寓するものなることを省察し、大にこの精神を発揚されたい」 (昭和4年6月22日の朝礼訓話より) |