岩手県盛岡市で藤原養蜂場を営む藤原家は、明治34年(1901)、初代の藤原誠祐氏がわずか7才の時に、 |
| お堂の中に空き樽を仕掛けて日本蜂を捕らえて飼育を始めた時から、もう100年以上も養蜂一家としての歴史を歩んでいる。 |
その後寒さに強いが飼育の難しい、また集蜜力の弱い日本ミツバチから、高い集蜜力をもつ西洋ミツバチに切り替えて |
| 東北初の専業養蜂家になった。 |
初代は、東北の寒冷地に耐えられる西洋ミツバチの品種改良に努力、耐寒と耐病性を備えた「カーニオ・イタリアン種」の作出に成功。 |
| 冷害に見舞われた農民の貧困対策の副業として、蓄積した技術を惜しみなく伝授し養蜂の普及に努力。 |
岩手県養蜂協会の初代会長 |
| 岩手県養蜂組合の初代会長 など歴任 |
| 昭和54年(1979)勲5等瑞宝章を叙勲 |
| 95才で亡くなるまで、その生涯を養蜂に捧げた。 |
南米に移住した知人の養蜂家が一時帰国した時の話を聞いて、 |
| 初代が、できることなら広大な土地でミツバチを飼って悠然と生活してみたいものだと言った。 |
| うらやむというより、日本の自然環境の将来に不安と失望を抱いての言葉だった。 |
| 花が咲く環境が減れば養蜂家は生きていけないから。 |
その時、三代目誠太は、 |
| 「これだ」と直感、尊敬する初代を越えるには南米に移住し養蜂をやるしかないと。 |
| 一念発起、三代目誠太は農業移住の学科がある東京農大進学。 |
三代目誠太は、意外な問題を抱えていた。 |
| ミツバチに刺されると、全身火ぶくれ状態になって呼吸困難を起こすアレルギー体質であった。 |
| 成長に伴って症状も次第にしどくなり、刺されれば失神するほどであった。 |
| 医者からは「命の危険があるからミツバチには近づかないように「言われていた。 |
南米の気の荒いミツバチの研究するためにもアレルギーを克服しなければと。 |
| 1カ月の間に数百匹のミツバチに自分の体を次々刺させる荒療治を行った。 |
| 「それ以来、ミツバチどころかスズメバチに刺されても平気な体になった。 |
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