太宰 治からの未発表のハガキにめぐり遭う迄の経過


 平成21年4月24日 母校(岩手中・高校)石桜同窓会担当の川村 康二先生(新24回生)からの1通のメールから始まりました。

   内容は、NHK大阪支局(製作局)の小川さんから三田 循司について問合せがあった。
        石桜同窓会会報9号(S50.3.25)コラム欄に三田 循司の記事がある。(NHKが石桜同窓会HPで調べたようだ)

       太宰 治の中期から晩年にかけて交際があったらしい。
       卒業アルバムの写真があればほしい。
     何だか興味がわく話だなあと思いメールしました。

 その後、川村先生から4回メールを頂きました。
         我が校の最初の東大進学者であること。
          顔写真送ったとのこと。

        盛岡タイムスに三田 循司に関する記事があり、その記事を書いたのが
         浦田 敬三氏で旧講師でした。(S27.6.7〜28.3.31国語講師)
         太宰 治が三田 循司が戦死したのを知り「散華」を書いた。
         何で知ったかはS18.8.29の朝日新聞で、国会図書館に問合せすればマイクロフイルムに残っている。
         盛岡での情報収集は盛岡てがみ館(担当船越さん)であること。
         最後のメールは5/15 この話はNHKでは中止なったとの連絡があったこと。
         (理由は資料があまり集まらなかったらしい?)

     この時点ではこの件については川村先生が対応してくれているので当方は経過報告を聞くだけにしていました。

 5/15 に中止の知らせをいただき、本格的に資料収集を開始しました。
       目的は石桜同窓会HPの温故知新に掲載するため。
       主に、岩手県立図書館(学校の図書館を除き、生まれて初めての図書館通い、15回以上)
          盛岡てがみ館
          ネット検索

        青森五所川原「斜陽館」訪問し支配人から情報収集 
          その他
        

 
■    80%位資料収集が達成されたので、最後に遺族からコメントをと思い同窓会名簿で住所探すも見当たらず、半ばコメント
         は諦めて今迄集めた資料を整理していた最中に、アッツ島遺骨収拾団に三田 循司の父三田 勇治氏が岩手代表で
         参加の資料に遭遇
          旧稗貫郡花巻町と判明する。

 
6/12 この日の予定は、午後から石桜同窓会HP 「恩師は、今」 吉見 正信先生の関連で石川 啄木新婚の家調査、
         宮澤 賢治がこよなく愛した小岩井農場奥にある倉掛山撮影、それから花巻に向かい賢治ゆかりのイギリス海岸
         花巻農業 高校敷地 内にある羅須地人協会を訪れた後花巻市役所で三田 循司の遺族の所在地を聞くことでした。

        啄木新婚の家で少し時間を取り過ぎたので倉掛山は後日ということにして、花巻に向いました。
        イギリス海岸、羅須地人協会をゆっくり見学し、時計を見たら午後4時半を少し過ぎていました。
        急いで花巻市役所を訪問し訊ねるも個人情報の関係で教えることが出来ないと云われ、わざわざ盛岡から着たので何でも
        いいからヒントでもと粘ったら、別の担当者が「そういえばNHKから以前同じ問合せがあり、教育委員会にまわした」旨の話
        をいただき、教育委員会は何階ですかと訊ねたら、ここにはない、石鳥谷支所内にあると云われ、支所に向う。
        時間はすでに17時10分で支所は盛岡に帰る途中にあるので、石鳥谷に着いた時間の様子で、今日支所を訪問するか、
        出直すか判断すればとの思いで車を走らせました。
        到着は17時30分少し過ぎ、勤務時間外で迷惑をかける等迷いましたが、思いきって教育委員会訪問、時間外にも
        かかわらず担当課長さんが親切に対応してくれて、住宅地図等で調べていただきましたが見つからず、引越ししたかも
        しれないので、その近所の酒屋さんか古いお店で聞いたらとのアドバイをいただきました。
        見つけた場所は「一日市」(ヒトイチ)

        時間はすでに18時、明日でも出直おそうと思い、盛岡に帰るべく車のエンジンをかけました。
        ここからが年金生活の悲しさ?せっかくここまで来てガソリン代がもったいないとの思いで花巻市内にUターンし、
        一日市に向う。
        (後で思えばここが太宰 治から三田 循司宛ハガキに遭遇出来たか、出来なかったかの運命の分かれ目か・・・・)

        花巻市一日市に到着し古い酒屋さんを探すべく下車するも訊ねる人見つからず、5分ぐらい誰かいないか探す。
        しばらくしたら50m先にこちらに近ずいて来る男性発見、酒屋を訊ねました。
        大変親切に対応していただき、ついでにこの辺に県会議員をした三田 勇治そして息子さんが市会議員を務めた三田 セという
        人が住んでいたはずだが知りませんかと訊ねたら、即座に今は住んでいない、三田 セの奥様は東京に住まいしている
        娘さんのところに引っ越したとのことで、もし引越し先を知りたかったら民生委員だったらもしかして知っているのではと家を
        教えて頂きました。
        そうこうしているうちに逆にどうしてそんなに真剣に知りたがっているのか逆質問され、母校岩手高校同窓会ホームページに
        太宰 治と関 係があった三田 循司の特集を企画しており遺族のコメントをいただきたく訊ね歩いている旨お話したら、又即座に
        そういうことであれば話 は別だ、三田 循司の妹さんを知っているといわれ、何処に住まいしているか訊ねたところ、花巻に
        住んでいるが詳しい住所は電話帳で 調べてあげるから自宅に来なさいと案内され教えていただきました。地図も
        インターネットで調べていただきプリントまでして頂きました。
        その人の名前は「松田さん」という方で地区の防犯委員で、道一つ隔てた前の家が三田 循司の生家で、どうりで三田家の
        事が詳しいことが判りました。
        少し時間がずれていれば「松田さん」に出会うことが出来なかったろうし、三田 循司の妹三田 綾子ご夫妻にたどり着くことが
        出来なかっ たと思います。(もちろんハガキに出会うことも・・・)
        後日松田さんとお逢いしたとき、松田さんもまった同じ思いのようでした。
        私の名前、住所、電話番号、同窓会HPアドレス等をメモしてお礼を申し上げその場所に向う。 

        花巻市野田という場所に三田 循司の生きているただ1人の生存している兄妹、妹三田 綾子、四郎ご夫妻宅を訪問
        三田 循司に関するお話を色々お聞きしました。
        話をお聞きしているうちに三田 四郎さんが、あのダンボールを見せたらと言い出し、三田 綾子さんが持ってきた箱から
        おもむろに取り出して見せて頂いたのが太宰 治から三田 循司宛のハガキでした。中を覗いてみたら原稿、写真、手紙類、
        大学ノート20冊位その他色々なものが雑然と入っていました。その時はこのハガキを後日コピーさせてもらいホームページに
        張付ければ面白いと思い会話の中でお話したら、三田 循司がホームページを通してで再び世に出るのであれば遺族としても
        願うことだ、是非このダンボールを持ち帰り整理して使用して頂きたい旨お願いされ、預かり書を書き持ち帰りました。
 
        翌日から5日間かけてダンボールの中の整理。結果は太宰 治から三田 循司宛てハガキ4通、弟三田 セ宛1通、その他
        高村 光太郎や宮澤 賢治の弟宮澤清六からの手紙、戸石 泰一からのハガキ手紙類、それから未発表の詩の作品、
        20冊位の日記風大学ノートなど貴重な遺品の発見でした。(後日大学ノートからもう1通のハガキ発見しました)

        この日、6/12はいつもより長い半日でした。
        しかもいつもの自分の行動パターンから外れたゆっくりの行動が数々あり、何かに導かれいてるような不思議な気がする
        半日でした。

 6/17 川村先生よりメールがあり、今晩10時よりNHKテレビで太宰 治の放送があるとの連絡を頂きました。
        三田 循司に関することはありませんでしたが、今迄太宰 治の名前位しか知らなかった自分でも少し理解することが
        出来ました。そして現在遺族より預っている三田 循司に関する遺品、特に太宰 治よりの未発表のハガキの重要さに
        気が付きました。


 6/18 朝、近所に住まいの地元新聞社に勤務経験のあるFさんに遺品を見ていただき今後の取り扱いに付いて相談する。
        大変貴重な物でこのまま眠らせておくよりマスコミに発表するとか、文学館等公共の施設で展示するとかにしたほうが
        よいのではとアドバイスを頂きました。

        整理した取材資料の中のに三田家の菩提寺花巻市広隆寺に三田 循司の石碑があることを知り、午前中写真を撮りに
        出向きました。
        帰路前記した松田さん宅を先日のお礼をと再訪。
        松田さんから、訪問してくれて助かりました。実は6/12にダンボールを持ち帰った後、三田 綾子さんが一回だけ逢った人に
        大事な箱を 渡すんでなかったと言い出し、その地区の防犯委員から情報が入り心配していた。住所を教えた手前責任を
        感じ私が教えたホームページにアクセス、確かにホームページ委員会役員名簿に私の名前があり半分安心し、
        半分心配していた旨告げられ、三田家を訪問するも留守で名刺を置き昼ごろ帰宅する。
        自宅から三田家に電話し今までの経過を報告したら、今迄心配していたが今日から安心して任せるから宜しくとのお話で、
        誤解が解けたようでした。

        NHK盛岡と盛岡タイムスに電話で情報提供、取材を受ける。

 ■6/19 早朝よりNHK全国放送で、花巻で太宰 治からの未発表のハガキ発見と放映され、盛岡タイムス一面トップで報道されました。
       
 ■6/20 地元テレビ、新聞各社より取材を受け、報道されました。
         新聞記事
 ■6/22 地元テレビ取材班を案内して花巻三田宅訪問(4回目)    
         

 ■その後の経過
      太宰 治研究の権威者の山内祥史先生(神戸女学院大 名誉教授)より電話を頂き、平成22年6月発行予定の
       「太宰 治研究(18)」に三田 循司と太宰 治の関係について詳しく記述したく資料提供を依頼され、3回にわたって遺族の
       了解のうえ提供する。

       日本現代詩歌文学館より学芸員が、太宰 治よりのハガキ等を見せていただきたく依頼され、2名来宅

      大変文学的にも貴重なものなので特別展示をしてはと提案され、後日遺族の了解を得るべく三田家に案内し快諾を得ました。
       
         ━ 太宰 治「散華」の詩人 ━
           三田 循司資料特別公開
         期間 平成21年10月1日(木) 〜11月30日(月)
         場所 日本現代詩歌文学館 展示室特設コーナー
 ■最後に
      
私は太宰 治の研究者でもなく、大変失礼ながら著書を読んだことが一度もありませんでした。
       ただ現在母校(岩手中・高等学校)同窓会(石桜同窓会)のホームページ委員会事務局長として、なんとかこのホームページが
       同窓生等学校関係者をはじめ世間に認められたく、素人ながら一生懸命努力している者です。

       この度の太宰 治より私達学校の先輩三田 循司宛未発表ハガキ発見はまったく多くの偶然が重なり、目に見えない何かに
       導かれているような気がしてなりません。(私は宗教にあまり関心がありませんが・・・)

       なんか三田 循司が太宰 治生誕100年にあわせて、太宰 治の背におんぶして現れた感じがしてなりません。
        才能が有りながら若くして戦争の犠牲になった先輩三田 循司は、今となっては太宰 治なくして世に出る事はない無名の
       人物で、しかも太宰 治 生誕100年の今年(6月19日)しかチャンスが無かったのでは思います。
       前年でも、来年でもなくこの年、この日しかなかったのではと思います。

       何かに導かれての遭遇に、何かの因縁を感じて長々と記しまし。

       今回色々な沢山の偶然と出会いがありましたが、就中最大のキーポイントは花巻の「松田さん」に出会えたことです。
       前記したように「松田さんも」同じ思いのようですし、この出会いが無かったらもしかして永久に
       太宰 治から三田 循司宛のハガキは、この世に出なかったのではと思います。
      
        そんな思いでこの三田 循司のページを編集作製しましたものの、まったくの素人の作製でまとまりを欠くものですが微意を
       くんで頂ければ幸いです。

       資料収集等で東京同窓会宇土澤氏、佐々木氏、仙台同窓会小林会長、横田事務局長、青森県文学館、岩手県立図書館
       郷土資料係りの皆さん、もりおか手紙館、浦田 敬三氏、東大総合図書館、国会図書館、三鷹市芸術文化振興財団、
       その他沢山の関係団体、関係者、松田さん
       そして三田 綾子 四郎ご夫妻、津島 園子さんのご理解とご協力を賜りましたことに心から感謝申し上げます。

   

                                                                       赤澤 征夫

  
   追記
     三田 循司は岩手中学在学中、花巻から汽車通学で一時寄宿舎にもいた。
     大変な秀才で初代理事長三田 義正翁夫妻に大変可愛がられ、岩手育英会から貸費生として奨学金を貰っており、
     昭和18年の葬儀に2代目三田 義一が参列し、遺族に奨学金は返さなくてもよいと告げられた。
     三田 循司はスポーツも秀でていて高跳の選手で活躍、旧制二高時代はハードルの選手でした。
                                                        遺族 妹三田 綾子談
     石桜50年史より