秋田工業は大正14年創立、ラクビー部は昭和元年創部である。 |
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岩手中学校ラクビー部発会式 |
昭和2年4月5日 |
岩手公演グランドで発会式を行った |
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岩手中学校創立の動機は、青雲の志から津田塾に学んだ創立者「三田 義正翁」が、意志薄弱な学生を |
見て、剛健な精神と強靭な身体の鍛錬を主とする教育論からの発想であり、企業でも国家においても |
その運命を支配する要因は人材なりとの哲学から、人材育成の殿堂設立に夢をかけた。 |
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これらの理想を具体化するための中心となったのが鈴木卓苗初代校長である。 |
知識の詰め込みと試験による評価のみに終始して、生徒の貴重な潜在能力を殺してしまうことを恐れ |
教室における授業の他に「体育デー」や「勤労デー」「遠足」などの多彩な内容が年を通じて数多く |
催され、それらの実践のなかで生徒の人格を高めようとする幅の広い教育が行われた。 |
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┃岩中体育行事┃ |
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特にスポーツとしての「クロスカントリー」や「ラクビー」の採用は県下の中学校でも異彩を |
放った。 |
昭和2年には、制定されたばかりの校旗を先頭に全職員、生徒200余名が岩手山登山を決行した。 |
この岩手山頂校旗樹立に象徴されるのは、自分達の手で伝統を築きあけようとする、創成期の岩手 |
中学校にみなぎっていた旺盛な気概である。 |
(石桜70年誌より引用) |
広嶋英雄先生は、当時の鈴木卓苗校長の「独立独歩のできる、たくましい青年を育てる」の教育方針 |
の趣旨にのっとってラクビーを取り上げ、ルールブックや解説書をわざわざ東京から取り寄せて、独学 |
でラクビーの知識を覚えこんでしまった。 |
広嶋先生は特に「日本は武芸によって高潔な武士道が養われ、イギリスではラクビーにフェアプレーを |
重んじる紳士が作られる。ラクビーのもつ最も男性にふさわしいスポーツとしての自制と教養を学べ」 |
と説いた。 |
そしてラクビーは体育の正課として採用された。 |
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ラクビーの他に柔道、水泳、陸上競技、テニス等のスポーツを基本から教育した。 |
また、広島先生は筆もたつ人で、スポーツ等数々の文を「石桜」に投稿した。 |
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「石桜」投稿記事 |
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岩手県で初めてのラクビー試合
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昭和3年5月5日 |
岩手中学校が岩手公園グランドで初めて学級対抗試合をした。 |
この試合が岩手県で初めての試合である。 |
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岩手県で初めての学級対抗試合 |
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岩手県で初めてのラクビー対抗試合 |
昭和3年10月29日 |
盛岡中学と岩手医専が岩手公園グランドで初めて対外試合をした。 |
岩手県最初の記念すべき対抗試合で岩手医専と盛岡中学が対戦した。 |
レフリーは岩手中学校の広嶋英雄先生で試合結果は岩手医専が6対3で勝利した。 |
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岩手中学校の初めての対外試合 |
昭和4年11月30日 |
岩手中学と盛岡中学が盛岡中学グランドで午後2時キックオフ |
15対3で快勝し、早くも校技ラクビーの伝統を打ち立てる。 |
翌年から昭和18年まで盛岡中学と春と秋に定期戦を続け、良きライバル校として親交 |
を深める。 ┃この試合の経過(昭和4年「石桜」12号より)┃ |
※ 当時の岩手中学フルバック戸嶋正夫談 |
競技のスタート間もない頃だったから、ルールに精通てしている選手は少なく、ファィトむき |
出しにして戦い、ボールそっちのけで、あちらこちらで格闘が演じられた。 |
レフリーはボールの行方を追って笛を吹くだけで精一杯。今のアメリカフットボールの |
ようだった。 |
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定期戦の最後は昭和18年春、15対0で岩手中学の勝利。 |
両校の対戦は26回を数え、岩手中学14勝7敗5引分け |
点数は岩手中学240点 盛岡中学126点 |
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※盛岡中学交友誌に「医専に常勝、敵は岩手中学なり |
岩中の猛攻抑えられず、3年連続で勝てず。とある |
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昭和初めころのラガースタイル
(盛中グランド) |
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岩手中学校の初めての県外試合 |
昭和5年11月23日 |
第2回近県ラクビー大会 秋田鉱山専門学校主催 |
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「天候風強く、みぞれは激しく、冷気甚しく、身を氷らすらす如し。グランドは水溜り多く |
泥海靴(くつ)を埋むの悪コンデション。10時、秋田工先蹴、岩中西側に陣す」 |
すなわち風上に立ったが、雨のうえ日本海から吹き付ける風、さらにグランドは足首まで水に |
つかって岩中フィフテーンはすっかり縮みあがった。 |
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秋田工は手配よく全員が手袋をして出場、風下にもめげず、フォワードの強い押しでジワジワ |
と攻めつけ、前半3トライを先行した。 |
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岩手中学は、後半激しく追い込みをかけた。右センター川畑がケイレンを起こして退場 |
秋田工の猛攻をやっとささえたものの0対9で惜敗した。 なかなかの健闘である。 |
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※岩手中学のメンバー中、石井は日大に進み、のち日大監督、小保内は軟式庭球でも有名。 |
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┃「秋田工業戦」 「ラクビー部」 「石桜」第21号 昭和5年8月15日発行┃ |
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秋田遠征の
メンバー |
秋田遠征から帰った岩中ラガー
中列右 戸嶋 正夫 |
秋田工業ラクビー部
昭和3年 |
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昭和3年「石桜」より ┃教職員名簿┃┃石桜会役員表┃┃石桜会役員写真┃ |
昭和4年「石桜」より ┃石桜会役員名簿┃┃父兄会名簿┃┃教職員写真┃ |
昭和5年「石桜」より ┃石桜会役員名簿┃┃ラクビー部員数┃┃教職員写真┃ |
┃ラクビー部活動報告┃ |
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広嶋 英雄先生はラクビーをはじめスポーツ全般にわたり岩手中学の基礎を作りあげ軌道にのり始めた |
昭和5年、夏の暑い日の午後、軍事訓練で2年生が北上川渡河訓練後、雫石川下流で水泳中に生徒の一人 |
が溺れ死んだ。 |
その責任の一端を背わられる羽目となって、惜しまれながら米沢興譲館中学校に去る。 |
岩手中学校に在籍は、昭和2年3月31日から昭和5年10月21日までの3年6ケ月であった。 |
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当時の米沢興譲館中学校 |
当時の浪花中学校 |
当時の大阪大学 |
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昭和3年 岩手中学教職員 |
昭和4年 岩手中学教職員 |
昭和5年 岩手中学教職員 |
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Career of Hideo shiroshima (経歴) |
明治40年 新潟柏崎市(旧刈羽村大塚)で生まれる。 |
昭和2年3月 日本体育会体操学校高等科(現日本体育大学)卒業 |
昭和2年3月 岩手中学校に体育部長として赴任 |
昭和5年10月 山形・米沢興譲館中学校に赴任(在籍9年間) |
昭和14年 大阪・浪速高等学校に赴任(在籍10年間) |
昭和24年 大阪大学 文武教官として赴任 |
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大阪大学時代の
広嶋 英雄先生 |
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編集後記 |
令和2年度石桜同窓会顕彰事業として「岩手のラクビーの父広嶋英雄先生」を纏めてみました。 |
あらためて岩手中学校の在任は短い年月でしたが、後世にその功績は引き継がれて生きていると |
感じました。 |
本年度(2020)岩手県高校ラクビーは盛岡工業が12大会ぶり35回、黒沢尻工業は6度目の高校 |
ラガーマン憧れの全国大会花園行きの切符を手に入れた。 |
このことについても広嶋先生が蒔いた種のご縁を感じます。 |
広嶋先生は日体大学の出身で岩手中学校に赴任しラクビー部を指導された。 |
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その一期生が戸嶋正夫(旧制2回生、後に岩手高校体育部長)である。 |
昭和7年、戸嶋正夫、藤森佐一、藤原俊彦(共に旧制2回生)が広嶋先生のご縁で日体大に進学し |
3人が主力となりラクビー部を創設した。 |
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昭和21年岩手中学OBの松見得明(旧制1回生)が盛岡工業のラクビー部長に就任した。 |
岩手中学校で戸嶋先生の教え子の大澤靖(旧制15回生)が先生のご縁で日体大に入学。 |
昭和23年日体大で近代ラクビーをマスターし卒業し松見先生が盛岡工業に大澤靖を引き入れた。 |
岩手中学OBの二人が短期間に常勝盛岡工業を築き上げた。 |
戦前から20数年にわたり長い間トップチームとして岩手県に君臨した岩手中学(戦後岩手高校)に |
息切れが見られ、盛岡工業、黒沢尻工業の2強時代に突入した。 |
本家(岩手中学(岩手高校)の畑で順調に育ったラクビーという最強の種が、よその畑で優良品種 |
として生まれ変わった。岩手高校のラクビーの伝統がよその畑で新たなラクビーの伝統が引き継 |
がれたの如し。 |
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現在の本家のラクビー部の現状を見てむなしさと、寂しさを感じるのは |
私一人だけでしょうか。 |
先人、先輩が汗と努力で築いた我が母校のラクビープの奮起を期待したい。 |
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このページを作り上げるのに古い資料の発掘、大勢の関係者のご協力を頂き感謝を申し |
上げます。 |
もしかして事実と違う表現もあるかと思いますがご指摘を頂ければと思います。 |
また、平成7年に石桜同窓会HPに掲載した「ラクビー部『闘魂』」も併せてご覧いただきたく |
お願い申し上げます。 |
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┃ 岩手高校ラクビー部『闘魂』(平成27年) ┃
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