弔 辞
              岩手中学校15回生を代表して     武田 仁


   村上君、元気になってよかったね。
   こう言って逢うはずだったのです。
  しかし君はとうとう逝ってしまいました。
   今日ここに君と別れを言いにきた岩中の同級生です。君の柩の前にいる両々がすぼらしい友人を失ったこと
  をほんとに残念がっております。君とはじめて逢うことのできたのは、28年も前の昭和15年春でした。中学5年
  間のつきあいでさまざまの思い出をもっています。
   当時のあの戦いのさ中、中学へ進学し、意気にもえて君と仲間になりました。吾々のようなガチヤガチヤし
  た、生意気でらんぼうな男たちの中で、君はほんとうに静かな、そして黙々とやる男でした。ワイヮイさわざ、
  迷う者たちの中で、君は余り語らず、話しかけるとその場にふと落着きをもたらすふん囲気を君がもって
  いました。また君はその物静かな反面、気合いのかかる剣道の部員でもありました。きっと君の中には、
  静々したところと熱のこもったところを持ち合わせていたのでしょう。 
   中学の最後の2年間は、学生動員で農村へ、川崎へと盛岡をはなれて生活もしました。
  若くてはらのすく苦しい時代に、同じ部屋にねて、ひまな夜を語り合うなど君と親しくする機会がありました。
  静かに話し、まじめに聞き、おこることを知らない温厚実直な君をみることができました。
   君は卒業直後、満州に行かれました。君の海外への勇ましい出発を吾々は感心しておりました。
  しかし、君の雄飛は終戦で中止しなければならなかったのは気の毒でした。そして外地での生活はさぞ君を苦
  しめたことでしょう。吾々の終戦後の苦しみとは比較できないものがあったろうと想像されます。
  ほんとにご苦労さまでした。
  帰国して盛岡郵便局ではたらく君をみて、また盛岡での旧交を温めることができると思ってうれしく思ったもの
  でした。しかし、その君がとう病生活をしていたことを耳にし、何と苛こくな人生だろうとつくづく考えさせられま
  した。それでも君は、求めるものを持っていたことを知りました。
   君は詩をたしなみながら世に披暦していました。その心を練りあげていく姿に、吾々は敬意と讃辞をもってい
  ました。そしてとうとう土井晩翠賞、H氏賞を受賞されました。私ども岩中15回生は、在学中のろくでなしから
  みて、学校からも同窓生からも15回生は大成する奴もない、ひどくつぶれていく奴もない、しかし、どうなること
  か心配だという誠に不安定な評判があります。最高も最低もない、個性もないと言われています。なんとなしに
  世の中に生きている仲間なようです。
   けれども、君の詩の最高賞によってこの評判は消えたものと思います。
    「おい、昭夫さんだぞ。」
    「やったぞ、彼。」
  こう言う同級生たちの喜びの声、友人を誇りに思う仲間たちは、大成しない同級生の中から、大成した君一人
  をみつけだしたとき、君への大拍手がわいたのでした、ほんとうにすぼらしいことでした。
   卒業後23年たって、君の長い間のとう病生活に対しておみまい申しあげ、死をいたみながら、この大挙を
  お祝い申しあげますことをお許しください。
   死の前日、君のおとうさんが、11月に県教育委員会からの表彰があることを君に知らせたそうです。
  それがおとうさんの最後の君へのおくりものになったと聞いて心根にひびくものがあります。
  その時君は大変元気だったそうです。
   ゆうべ同級生が集まって、君と親しかった中学時代を語り合ってすごしました。君はきっと考えていたで
  あろうと。強い詩作への情熱があれば、肉体は征服することができる。というのが君の信念であったろうと思っ
  てます。しかし、それをなし得なかったことは返す返すも千秋の恨事であります。
   今、君がいなくなった後、君とくらした中学時代の友人たちは、それぞれに仕事にはげんで行こうと
  言ってます。君のなしとげた心に刻みながら………
   それが今は君に対する唯一の功徳、唯一の冥福を祈ることになるのだと思っています。
   ここに同級生一同に代ってつつしんで弔意を捧げます。
   村上昭夫君、安らかに眠ってください。