石桜振興会(現石桜同窓会)主催

        座談会【村上昭夫を語る】 録音記録文復刻再録

                 第3回 平成2年(199011月2日  於 京 極
                      【出席者】 松見得明(同窓会長)、岡澤敏男(同級生)、足澤 至(同級生)、西在家寛(後輩生)
                             村上達雄(弟四男)   村上ふさ子(昭夫夫人)   及川儀英(昭夫隣人)   小原彰久(後輩生)


松見 fはじめたいと思います。今晩はいろいろ都合などおありだったと思いますか、村上昭夫君のことについていろいろお話をいただく
ため、皆様にお集ま戴いたわけです。村上昭夫さんの弟さんとは初めてお会いするわけですが。

   (中略)

村上君の子供の頃のこと、あるいわ青年期に入ってからどういう人であり、どうゆう生活をしていたか、そういったような
お話をうかがって、昭夫君の伝記でもございませんが、人なりについて本を出版したいという企画がございますので、資料と
させていただきたいと思っております。そういうことから今晩お集まりいただいたわけです。

簡単にご紹介申し上げますと、隣こいらっしゃるのは、及川儀英さんとおっしゃいます。天神町にお住まいでございまして、
偶然のことですが、うちの家内と城南小学校で同級生であり、また海野経さんも同級生であったというようなことで、親しくして
いただいておりますこ

    (中略)
及川儀英の今住んでいらっしゃる天神町の家が、村上昭夫君のお父さん、それから昭夫君らが生活をした家なんです。
それで及川さんからも何かご存じのことがございましたらと思ってご足労ねがったわけです。
それから初めてお目にかかります昭夫君の弟さん、都南村の矢巾小学校の教頭さんをしていらっしゃいます。
いろいろ青、少年時代のことを詳しくお聞き出来ると思います。。それから向かいの方は、この前、大坪さんiこ来てもらった
ときにも出席していただいたんですが、昭夫さんの奥さんで今日もまた来ていただきました。
それから私の向えは岩手高校の教頭の西在家寛先生、村上君のことを始めいろいろ、岩手中、高等学校の卒集生あるいは
関係者についての資料を集めたり、編集をしたりしている方で、今度の昭夫君のことについても御苦労いただいておるわけです。
そのお隣は村上昭夫君と同級生で、現在岩手高校の先生をしていらっしゃいます足澤先生でございます。
それからこちらの角にいらっしゃいますのが、やはり村上昭夫君の同級生で、この前の座談会にも来ていろいろ話をまとめて
貰ったんですが、岡澤君といいまして、‾口語短歌のほうの専門家でございます。同級生でありますし、そういう文筆関係の
ほうにいらっしいますので、とりまとめをして本を書いてもらおうとお願いをしております。岡澤敏男君でございます。
こちらは盛岡大学国文科の2年生で岩手高校の出身の小原彰久君です。盛岡大学の文化祭の村上昭夫展で写真や資料を
展示したのですが、その時中心になってやった者です。
松見 そういう方で、勉強もしているので参加をするのもいいだろうとということで参加してもらいました,
ということで、ゆっくりと思いつきで結構ですのでお話いただき、あとで岡澤君にまとめてもらうということでございますので
宜しくお願いします。
早速ですが、これが及川さんの今すんでいるところ、村上君の両親と村上くんが住んでおったところです。
盛岡裁判所に務めていた頃ですね。
及川 何か、私が伺ったところによりますと、盛岡裁判所の務めを辞めてから東北電力庶務のほうにしばらくお勤めになっていたという
とで、その間は天神町のところにいたんだそうで、そのあとカモさんとおっしゃる盛商の校長さが村上のあとに住んでカモさん
が年取って息子のところに帰るということで私が借りたわけです。
松見 あとは、岡澤君にお願いします。
岡澤 皆さんひざを崩して、フランクなお気持ちどうぞ。
今まで2回座談会をもったんで。1回目は大坪さんが中心になって昭夫さんの詩創作の苦労とか、受賞の背景などといったも
のを中心にお話しをいただいたわけです。2回目の座談会は満州時代の昭夫きんということで、たまたま同級生で満州でご一緒
した3人の方が発言をしました。ある面は一緒こ仕事をした、または、間接的に町で見受けた昭夫の姿、そういったものを
浮き彫りにしたお話てありました。
今日は奥様、弟さん、そういった身内の方、それからお隣の及川さん、そういった、ごく身近なの方々がいらっしゃるのですから、
人間昭夫といいますか、そういう面を語っていただくというような格好になるかと思います。
弟の達夫さん、こんなに大きい方ですけれども、確か、和夫さん、貞夫さん、その次が達夫さん、その後にも成夫さん・・・。
村上 成夫、それから下が睦子といいます。6人兄妹ですね。
岡澤 というふうに子沢山で賑やかなご家庭だったと思います。その中のだいたい真中にいらっしゃるのが達夫さんなわけですね。
会長さんが冒頭にお話されたように、小さい時の昭夫さん、そういったものを、いわゆる弟さんの目を通してどんなふうだった
のか、ということに興味を持っているわけなんです。年表をみますと、お父さんの転勤であちこち動いていらっしゃるようですね。
それで達夫さんがお生まれになったのが昭和10年ということでございますが、昭和10年といいますと昭夫さんが8歳のころで
お父さんが遠野の裁判所の盛出張所長をやっていらっした。ですから盛におられたんですね。それから4年経って昭和14年
盛小学校を卒業されて、4月に昭夫さんは岩手中学に入学する、その当時はご一家は盛にいらっしゃるんですね。
村上 16年に盛岡に来ました。
岡澤 そうしますと岩手中学に入ったために、単身で盛岡にいらした。
村上 2年位は、こちらへ下宿していたんてはないですか。
岡澤 下宿も今は町名が変わってしまったんですけど、仁王小路、番地不詳となっておりますが、佐々木守彦方に下宿して
居たそうです。2年間下宿していたんですね。そしてお父様が盛岡裁判所に転勤され、そこで当時の加賀野中道27番地、
いまの天神町ですね。そこに移転された。それで昭夫さんも下宿からこの家に同居するようになった。
盛とか、そのへんの昭夫さんの様子はいかがでしたか。
村上 いくらかまてめて来たわけですが、それでお話してよろしいでしょうか。
先程もお話にありましたように、うちは8人家族でした。.
兄妹6人ということになるんですが、昭夫、和夫、貞夫、というように続き、私が4男ということになります。最後は妹になるんですが
妹と兄との歳の違いというのが18位になるんでしょうかね。私とは8歳位違うんじゃないかと思います。
そこで、同じ兄弟といいましても歳が離れているものですから、私が小学生のとき、すでに昭夫のほうはほぼ成人に近くなって
いるということであまり話し相手にもならなかったわけです。むしろ私のほうは、下の兄、その下の兄というほうが身近な
存在だったので、幼い頃の印象というのはあまりないんです。ですが断片的に思い出してみると、いくつかの思い出というもの
もありますので、それなどについてお話ししてみたいと思います。

まず、盛時代のことですが、私が物心ついたというのが盛時代の最後のほうなんですね。つまり、小学校へまもなく入学する
というあたりから、兄がいるんだな、という感じで覚えていました。実はそのあたりはすでに昭夫のほうは岩手中学のほうに入っ
ておりまして、休みでないと帰って来ないということで、盛時代の思い出といいますと兄が家へ帰るとき、お土産をもってきてく
れたことです。これが家族全員に持ってきてたんじゃないかと思いますけれど、母には糸通しの道具とか、兄弟たちには
おもちゃのようなものを買ってきてくれた覚えがあります。私には積み木だったと思いますが、今でいいますと、ログ・キャビンと
いう建物がありますけど、組み合わせていきますと、それになるというふうなオモチャで、私はすごく気に入りましたね。
あの当時、オモチヤなんてなかなか手に入らなかったものですから、私は小学校いっぱい、結構重宝してそれをいじって遊んで
いた覚えがあります。盛時代の記憶といいますとそんなところです。
岡澤 気をつかってお土産を買ってくるわけなんですね。やさしい人ですね。
村上 けっこう親思い、兄弟思いの兄だったというふうに聞いててるんですけれどね。
盛岡へこられてからは、最初は天神町の熊谷さんという方の長屋を借りて、大家さんのすぐ隣の家だったんですけれども
何ケ月だったか、1年位だったかも知れませんが入っていました。それから間もなく加賀野中道27番地のほうに移りました。
岡澤 最初は天神町の熊谷さんの長屋に入り、それから天神町へ、そうですか。その期間はどのぐらいですか?
村上 1年にもなったか、ならないかというところです。なにしろ人数が多くで、家族が8人、下宿してた人がいて10人ぐらいでしたか。
岡澤 ご親戚の方かですか?
村上 そうです。いとこか誰だったかと思いますが、10人ぐらいがわずかな部屋というところに住まいしていて狭いということで、
たぶん父親が探したのだと思います。で間もなく移りました。
岡澤 いずれ、加賀野中道てすね。
村上 その時はすでに兄と一緒に暮らしていたんでが、そのあたりの思い出というものも実際のところあまりないんです。
というのは、ひとつ理由があるんじゃないかと思います。どちらかというと、おそらく兄は学校でも目立たないほうの存在で
はなかったかと思うんですが。下の弟たち2人のほうはかなり活発なほうで、さまざまエピソードもありますし、親にもけっこう
迷惑かけていたという感じだったんですね。
岡澤 そのとき昭夫さんは中学ですけれど、達夫さんはどこの小学校ですか。
村上 私は城南です。それから貞夫、それから和夫はおそらく5年生か6年生のころだったかと思いますが、3人兄弟そろって城南に
通っておりました。昭夫のほうはそういうわけでエピソードのほうが乏しいんですが、私のほうも2年、3年と学年が進んでくる
につれていくらか思い出のほうもあるんですね。
一つは、昭和16年以降ですのですでに戦争に入っておりました。おそらく学校のほうでも軍事教練珠というものが盛んだったと思います。
岡澤 しよちゆうですね。
村上 多分、配属将校の方がいらして、時々はかなり大きな練習をやっていたのではないかと思いますけど、さの練習の場所はたぶん
岩山じゃないかと思うんですが、やはり岩山で練習があるというので銃を持って来ました。
家に持って来て、たぶん次の日にでもそれを持ってそれぞれが行ったんだと思います。このとき兄は、加賀野中道の家の2階に
長兄であるということで1部屋あずけられていたわけです。私なんか歳が離れているものですから、なかなか兄の部屋に上がって
行くという機会なかったものですから、なぜかその時は上がって行ってんですね。そうしたら銃がありまして、また明日練習だと
いうことで、兄がなにか銃の操作を教えてくれたのを覚えていますが、それが兄の記憶の始まりだと思います。私にも持たせて
教えてくれました。かなり重かったような感じです。38式か、あるいは99式かちょっと分かりませんけれど。
岡澤 38でしょうね。
村上 38でしょうかね。練習が終わってきてから、さまざまな話しているのを聞いた覚えがあります。
なにか練習というものを子供の耳にも、すこぶる楽しんでやっている、という感じがしましたね。
そんな話を覚えています。
岡澤 火薬のない薬莢を詰めてやったんですね。
村上 だったかと思います。それから岩中では岩手登山というのをやっていたんですね。岩手登山に出かけて行くというのも覚えて
おります。あの当時の登山というのはなかなか大変で、多分柳澤、滝沢の駅あたりから歩いてではと思いますが・・・。
岡澤 網張から登ったんです。綱張に一泊して未明に起きて懐中電灯で足元を照らしながら、ご来光を山頂で迎えるという、そういう
習慣なので、どうしても一泊するために柳澤では神社が狭いものですから、それで、もとの古い網張の温泉に泊ったんです。
そして豚汁の材料と鉄鍋を持って、それでにぎり飯と一緒に豚汁をいただいたという、毎年、やっていたようです。
村上 でかけて行く時のことなんか覚えていましたが、実際どんな話をしたかということなどは、ちょっと記憶にありません。
松見 あの頃はわらじ?
岡澤 どうかな?
及川 あの頃はあまり無かったんじゃないかな、やっぱりわらじですね。
岡澤 そうですね。足袋を履いてわらじですね。
村上 中学時代の兄の印象はさっきお話したように、かなりおとなしでほうで目立たなかったんじゃにいかなあ、というふうに思います。
そのあとのほう、かなり性格が変わってきたという感じなんですが、今も思い出してみますと学生時代までは相当に内気なほう
で、口数も少なかったんじゃないかとなと思います。家に来ても話をすることはしたんでしょうが、どちらかというと主役は弟達
といういう感じがしました。それから、私はあまり記憶にないんですが、4年生のときに、パラチフスという病気になって留年して
いるようですね。いくらか覚えがあるんですが、このことを昨日も母と話をしたんでが、パラチフスは父親もかかったんですよね。
岡澤 その時てすか?
村上 そうです。父親がかかりまして、父親からうつったということを話しておりました。それで1年間の留年ということになったようです
けれど、その後でしょうか、動員になったでしょうかね。
岡澤 そうです。
村上 多分、川崎か平塚あたりでじゃないかなと思うんですが。
岡澤 そうですね。鶴見の造船所の隣りの日本鋳造ですね。軍事物資の鋳造ですね岩鋳の鉄瓶なんかありますけど、軍事物資を
造るわけですね。
村上 そうですか。その時は兄達は皆、もうすでに動員でそれぞれ出て行ってしまい、家にいたのが、私、弟、両親ということになる
んですけれど、父親は仕事のほうが忙しくて帰って来ないというようなことで、留守をしていたのが母親と私と弟という
感じでした。兄達が動員に出てから、そのへんのところはちょっとぼやけているんですが、すぐ帰ってきたのかな?
いったんは帰ってきたと思います。むこうのほうにに行ってたのが、昭夫と和夫なんですね。そこところがごちゃこちゃになって、
ちょっと分からないんですが、やはり帰ってくるときお土産を持ってくるんですね。その時はどっちの兄が持ってきたか、昭夫の
ほうじゃないかなと思うんですけれど、確かじやないんですが、旋盤で作ったこま、おそらく、砲弾か何かを造る材料の鉄の
マルジュウ?を削って上と下を細くして作ったんじゃないかなと思います。それから、銃の部品を何か持ってきたような気が
しました。これもどっちの兄だかちょっと分からなかんですがね。銃の部品。銃でいいますと遊底といいますか、そこの上に
かぶせるところの部品と、撃鉄といいますか、薬蕎とぶつかるとところですね、バネみたいな。
岡澤 それは和夫きんかも知れませんね。というのはですね、鋳造のほうは鉛のスクリューだとか、歯車だとか、そういったものの鋳造
でして、<>型を作ったり、鉄を流し込んでそれから取り出したり、バリといってせんべいの耳みたいなのが出たのをきれいに
グラインダーみたいなもので削ったり、それから溶接で削ったり、穴をふさいだり、そういうようなことですからね。
村上 旋盤は使いませんでしたか?
岡澤 使いませんでしたね。
村上 使わなかったですか、そうすると和夫のほうかも知れませんね。そこらへんのところはどうも確かでなかったから。
やがて卒業したのが20年、結局、1年留年したというちとで1年延びたわけですが。
岡澤 20年の3月に動員先で卒業したわけです
村上 満州こ行きましたね。そのあとの記憶のほうが、私のほうはやはり歳もいったということでさまざまあるわけです。
岡澤 そのへんが大事なことなんです。というのは一つは今日の達夫さんの話しの中でパラチフスのことで、お父さんから感染したと
とは私どもも耳にしなかったんです。
村上 母がそんなふうに言っておりました。その時は病人が2人いて大変だったようです。一時隔離されたんじゃないでしょうか。
岡澤 そうですね、ですからそんなことで入院したり、いろんなことで留年しなければならなかったんでしょうね。
それから今度は満鮒時代の話ですが、このへんは内側から身内の達夫さんの目を通じて新しいお話が開けると思うと、大変
関心が深いんですが‥・・。
村上 一つは満州こ行った動機ですが、おそらく戦争もかなり差し迫っていた頃ですよね。どちらかという敗色濃いてというあたり
なんでしょうか。なぜ行ったのかな、ということになるんですけど、これは兄が直接話したことではなく、私達弟があるとき
話したことなんですが、一つの動機は当時は家督というものがあるわけでして、家を継ぐのは長兄ということになるんですが
あるいは昭夫の場合は自分が継がないで弟に継がせようとした節があるわけです。なぜそんなことになったのかというと
どちらかというと昭夫のほうは、親からみればおとなしいほうだし、成績もあまりパットしなかったじゃないかと思います。
次の和夫のほうが成績もある程度以上といいますか、何をやっでもできたんですよね。
岡澤 和夫さんは中学はどこでしたか?
村上 中学は盛中です。親たちもロでは言えませんが、兄と弟ということでさまざま比較していたんじゃなと思います。
兄の場合は、おとなしいんですけど、かなり感受性の強い人でしたから、そこいらへんのことを考えて、自分は家を謎がないで
満州へ出るというように・・・、あるいは和夫には言ったことがあるのかも分りません。実際、この話は和夫から聞きました。
そういう動機というのもあったのかも知れません。

復員して来たのが21年の秋ですね。日にちは分りませんが父親の話ですと、当時は加賀野にちょっとした畑を持っていて
朝の畑仕事を楽しみにして通っていたんですけれど、まあ不思議な話があるもんだということで、毎朝そこの畑へ行く途中で
りんごが一つ落ちていたのを拾ったんですね。これは不思議な話だといっていて、3日目の朝だったと思います。
3日目に私も覚えていますが、帰って来たんですよね。さすがに私も物心ついてすごく嬉しかったんですね¢
兄が掃って来たということで。
岡澤 どんな身なりでしたか?
村上 もう本当のぼろという感じでしたね。いわゆるカーキ色の服だったと思います。リュックもかなり古びたもので、中に何を入れて
いたのかなぁ、今でも覚えているのは、これもお土産になるんでしょうか、フェルトの靴が一つありましたね。
古ぼけた布の財布がありましたね。今も大事に持っていますけど、そしてさの中に満州時代の小銭が入っていましたね。
それが兄妹たちへのお土産といえばお土産のようなもので、記念品みたいな感じだったかも知れませんが…。
そして帰ってきまして親はすごく喜びましたね。実際の話、母親のほうはどうか分りませんが、父親の方は、完全に死んだもの
と思っていたようでした。
仏壇に、陰膳というのですかね。供えていたように思います。
それから、いつか父親が友達を呼んできて酒を飲みましたが、その席で昭夫に申し訳ないといって泣き出したというようなことも
あって、てっきり死んだものと思っていたようでした。それが帰って来たものですから、もちろん母のほうも喜びましたけれど
父親の方の喜びというものはひとしおでした。帰ってきて何時間か話をして、当時は米もなかったものですから、お隣のセガワ
さんというところで気を利かせて、お米を持ってきてくれて、それを炊いてご飯を食べさせて、昼ごろだったんでしょうかね。
まず休めということで寝たんですが、次の日いつばいぐらいは2階から降りてこないで寝ていたという感じでした。
その時、私は6年生でしたけれど、かなりはっきり覚えています。

そのあとは、しばらく振りで顔を見たということもありまして、すごく珍しいわけですよね。
満州の話しを聞こう、聞こう、昭夫のほうも、そのころは6年生ですからあま感じませんでしたが、今思うと性格がすっかり
性格がすっかり変わっていたという感じなんです。恐ろしく積極的というか…。
岡澤 精悍になって来たわけですね?。
村上 そうですね。やはり、ここ2年か3年の体験というのがすごく大きかったんじゃないかなと思います。
岡澤 同級生の証言によっても、とにかくあの1年間」官吏として満州こ行って半年も経たないうちに敗戦で放り投げられて、そのあとは
ルンペン生活で人のことなど構っていられない、そういうところで、危険が一杯あるものですから自分の安全を守るために
大変な苦労をした。まず食べるためにも行商をやったり、いろんなことをしなければならない。おとなしい昭夫さんがそういう
生きるために苦労した約1年の経験というものは今までにないすごい体験だったと思います。しかも日本人同士が、お互いに
足を引っ張りあったり、人の物を盗んだり、また、もとは自分たちがアゴで使っていた土地の人、中国、満州の人達が今度は
逆に日本人をいじめる状態になってきて、そういうような中で助かろうとしで日本人を密告して売った、いろいろなそういう
混乱がたくさんある中で1年暮らしたということで、内面の秩序というものがすっかり変わったと思うですね。
ですから帰って来たときほんとに身内の方の、いま達夫さんがおっしゃったように性格が以前とすごく違っていたな
という印象は当然だっと思うんですね。あの嵐を潜ってきたわけですから。
村上 親達も多分そういう感じをもっていたと思います。そのあと何ヶ月かゆっくりしていたというところですか、家で満州時代の話を
さまざま聞かせでくれました。仕事のこと、いろんな仕事をやったなんていうことを言っておりました。
一つ覚えていますのは、当時、戦争が終わったばかりで砂糖がなかったですよね。
砂糖がなくても甘いものに私達飢えていたんですが、満州時代に砂糖を作ったことがあるということでした。
砂糖大根から砂糖を作ったということで。
岡澤 やっぱり、もう亡くなったんですが、盛商出身の菊池さんという方と同年なんですけど、その方のお話で砂糖大根で砂糖を
作って、向うで成功した人がいるということです。そのような話も聞かされたこともあるんですけども。
そうすると、やっぱり手伝ったりしたんでしょうね。
村上 誰が砂糖大根を手に入れたのか、ちょっと忘れたんですけれど砂糖大根が手に入りましてね、それを兄が切って鍋で煮詰めて
何か作った覚えがあります。
岡澤 今度は帰って来てからですね。向うの経験を生かして、なるほど、面白いですね。
村上 それからあとは、ひどい目に遭ったという話もしてました。
岡澤 そうでしょう。
村上 はい、ロシア兵に捕まったという話なんてです。
どうして捕まったのかといいますと、戦争が終わってから向うのほうで、武器なんか持ってはいけないということは分ってたん
ですが、自分の住んでいるところからピストルか何かが見つかったという容疑だったようです。
それで捕まえられて連れて行かれて、かなりひどい折檻を受けたという話をしてました。縛られてコンクリートの床の上に転がさ
れしまって、小便のほうもたれっ放しという感じで、そうすると流れてくるので、その辺のゴミのようになもので流れないように
垣根を作ったなんて話をしました。
岡澤 そうすると、昭夫さん個人のといより、そこの集団の人達みんなということで、多分その集団の中からピストルが出たわけ
ですね。おそらく。                                     /(
村上 その辺んのところは、はっきりしないんですよね。
岡澤 つまり、軍人ということではなくても、あの頃、防衛するためにそういう武器を持っていた人もいるかと思うですね、どこからか
入手して、いわゆる居留民といいますか、一種の難民ですよね。
村上 軍隊を解散するときに兵器をかっぱらう者があるからね。
岡澤 ちょうど昭和2年の1月生まれで、この歳の方々は兵役にとられなかったんですよね
同級生の証言によれば、それで終戦になる時に、ハルビンの郊外の飛行機工場で作業をやっていて、その時に敗戦になり
解散になったんです。現地解散で「もういいよ、各自帰りなさい」ということで、兵隊達は残務整理のためにそこの飛行場工場に
残ったんですけど、民間の人達は、官吏の人は、官吏挺身隊という形でほうぼうの、みんな違うところに採用されたわけです。
そういう人達がみんな飛行場工場に集まったわけです。そのために、たまたま同級生もそこで一緒になったわけです。
ですから終戦までそこで、カイコのようなベットに寝ながら、夜に話をしたりして暮らしたんですね。
民間の方々、官吏の挺身隊の方はそこで解散して任地に皆帰ったわけです。

結局、昭夫さんはハルビンの近くの役所だったんですが、いちばん近くだったんですね。あとの人達はもっと遠いところだった
ですがね。いちばん、ソビェットの軍隊の進駐の早かったのはハルヒンですから、その点でいちばん、そういう可能性が
強いわけですね。あとの人達はもっと南のほう、吉林省にいるわけですね。ですからそういった点でちょっと時間差が
あったけれども、ただ、川嶋印刷に勤めていた山内君という人がいますけど、彼の話によると、11月に新彊の町で、たまたま
町の真中で昭夫君に会ったという、敗戦が8月ですから3ケ月後ですね。ですからその頃もう新彊に来でおったな、というただ、
やあ、ということだけで、一緒に暮らすとかそういうことはなくててんでんばらはらになったんですね。そしてその時に、日本人達
どこからか物資を手に入れて、マッチ売りじゃないけれど、石鹸を売ったり、タバコを売ったり、そういうようなことをして食べる
物を稼いでいたわけです。そして確か、タバコか何かを昭夫さんが売っていたようだったと。寒くなってきてはいたけれども、
まだ暮れではなくて、11月頃だったと思う。その3ケ月の中でそういうような場面が、あるいはハルビンの自分達の役所の仲間達と
集団で遭難していたところで、たまたま今の話しのピストルが発見されたために尋問をうけて苦しめられたという場面があっ
たかも分りませんね。ただ、結局そういったことも嫌疑が晴れて、脱出して新彊にむかったのかも知れませんですが。
そういう事件があつたということも初耳てすね。
村上 そんなことを覚えています。あとは、八路軍の荷物運びみたいなことをやったことがあると話しておりました。
岡澤 いろんなことをやったんですね。荷物運びもやったんですね・…。
そういう断片をつなぎ合わせるとライフスタイルも出てくるし、生活の状況というものが彷彿としてくる感じがしますが、
なるほどね。てすから同級生の話しなどもつなぎ合わせると、だいたい共通したひとつのライフスタイルがあったんですね。
村上 それで帰って来てから、1年してからでしょうか、盛岡郵便局に勤めたんです。ただその前に父親の話ですと、青年師範学校
を受けているとか‥・。
岡澤 うですね。青年師範学校に合格したけれども、この年譜こよると弟さんたちの進学のために入学を断念したと…・。
村上 そうだったんと思います。多分和夫のほうが仙台二高のほうに入ったので。
岡澤 なるほど、旧制の高等学校に…・。
村上 それでちょっと学費のほうが、親の負担が大きいということだったかと思います。
それで結局、郵便局に勤めたんですが、郵便局に勤めたあたりはすごく活発でした。
岡澤 これでみると、文化運動などに…‥。
村上 ええ、もう、毎日家へ帰って来ると仕事がいかにも楽しそうな感じ。仕事ばかりじゃないんでね、サークル活動、とりわけ一生懸命
にやっていたいたようなのが合唱だったと思います。
岡澤 そうですね。このへんのところは、奥様の思い出の中とも重なってくると思うんですけれども、非常に合唱や歌が好きだった
ようですね。何かタクボクの歌を吹き込んだテープを持っていらっしゃるんですね。
村上夫人 ええ、ちょっと音痴なんですけれどもね。
村上 近くの、同じ天神町ですが、芦野先生という方がおりまして、芦野先生のところに足げなく通っておりました。
その・・・・?会で教えていただいた先生というのは、おそらく芦野先生じやないかと思うんですが。あのあたりの兄の様子を
思い出してみますと、毎日毎日が楽しくてしょうがないといった感じでしたね。
岡澤 戦後はすごくそういった点、労働組合のサークル活動というものが活発だったですね。
村上 あのあたりは、世の中もだいぶ落ちついてきましたしね。
岡澤 そうですね。よくわかるな。
村上 とは、ものなんかも書いていたようです。
岡澤 ですから、この年譜の中で、文化活動する、25年の春ごろまで、と書いてあって、満州の生活を題材こした小説も書くという
ふうにこの年譜の作者は書いておりますが、この点もはっきりしないんですよね。どこかに発表したのか、密かに書いてそのまま
未発表のまま、あの…・。
村上 郵便局のサークル誌か何かに出したんじゃないかと思いますが・・・。
岡澤 そうですね、そうするとおそらく、発表するとなるとサークル誌だと思うんです。機関紙の編集なども担当しておったから。
村上 物書きを始めた当時で、自分が書いたもののレベルというものも恐らく分らなかったんじゃないかなと思います。
そのあとだったら、それを没にしてしまうこともあるかも知れませんが。
岡澤 恐らく生々しい満州時代の印象を書き残しておきたいという気持ちがおありだったんでしょうね。この辺のところはあくまでも
ペンティングですからね。やっぱりあの頃の・・・・?の機関紙を探してみないと、これは聞いてみても、発表紙がはっきりしないことと
どんな内容かということも想像の域を出ていないんですね。これは是非はっきりしたいものと思います。
その頃は楽しくて充実していたんですね。張り切りすぎてまた体をこわすということにも繋がったかも知れませんね。
村上 そこらへんのところ私もよく分らないんです。発病したのが25年なんですよね。歳でいうと24歳の時です。
この時のことを覚えています。これはある日、風呂に入っていたんです。風呂というのが古い風呂でして、鉄砲風呂という
んですね。昔は鉄の筒があって上から薪を放り込んでやるのです。それで家族が順番に入るんです。私は下の方ですから
終わりのほううになるんですけれど、それで薪を入れて、途中で多分、補給だったと思うんですが呼ばれて風呂場の中まで
入っていくと兄が体をこすっていて、その時「これを見ろ」というわけです。どっちの骨だか思い出せませんが、
「これが腫れている」というんです。脇のほうだったかと思うんですが、肋骨のあたりだったんでしょうかね。
「ここのところが腫れている」というんで見たところ、何かやはり青く腫れている感じで、私もびっくりしました。
そのときは私がもう中学校に入っていたのかな、あるいは高校1年あたりだったかもしれません。
それが病気の始まりだったんでしょうね。その時は肋骨カリエスでした。肋骨カリエスといえば結核系の病気なんですよね。
及川 私もカリエスを病んだことがありますが、なかなか治らないんですよね。戦前は治療といえば日光浴しかなかったんですよ。
紫外線療法ですね。戦後はストマイとか色んな結核の薬ができたれど。
岡澤 まだこの頃はコウヤクでなかったと思います。
村上 治療法といいますと外科手術、あるいわ大気療法でした。サナトリュウムなどで、このとき手術をしてますね、肋骨を何本か
取って恐ろしかったということで、付き添いをやったのが親達2人なわけですけれど、帰って来てから話しを聞き、弟達も
すっかり沈んでしまいましてね。それから初めは郵政省の病院でみてもらってましたが、そのあとサナトリウムのほうに入って
の手術だったかと思います。サナトリユウムに入りましてから、家とサナトリユムとは時間にしてとのくらいあるのかな、加賀野と
あそこは浅岸といいましたか、結構距離ありましたよね。洗濯物とかさまざまの付け届けというものがありまして、それが私
の仕事でした。サナトリユムに親から頼まれて、これ届けてこい、といわれ行くんですよね。それで行ってみますと、ほとんど
病院ては話しをしませんでしたね。なぜかと言うとこれはよく分ります。弟に伝したくないということなんです。
ここは病人だらけだから、物を置いたらすぐ帰れと言って。せっかくこっちのほうは何か話をしようと思いながら行くんですけど
なかなか話して呉れませんでしたね。退院して来たのが28年になるんでしょうか。28年に退院して来て、それから俳句とか詩の
創作に入りましたね。この時の親の気持ちというのは、先ず退院して来てとても嬉しかったと思うですけど、もうすでに手術をし
て肋骨を何本か取っててるので無理のきかない体であるというのと、決して直ったという状態じゃないんですよね。それで、
できればまず丈夫になって勤めて貰いたいというのが親の気持ちなんです。こところが兄にしてみれば、かなり詩を作るほうに
身を入れていたような感じがします。初めは俳句だったんですかね。サニトリユム時代は‥‥。
岡澤 そうですね。サナトリユム院内では宮野小提灯さんの「草笛」に投句しておったんですね。
村上 ととにかく、夜おそくまで詩や俳句などを創っていたのを覚えています。
岡澤 それと、このサナトリユムに高橋昭八郎さんという、今、社陵印刷の常務か何かしてらっしやる、あの方が詩人なんです。
あの方の影響をうけて詩作こ入るわけです。そういうようなことで一本道は詩人にアピールされて詩の道に入るし、また、
サナトリウムの中には俳句熱があってサナトリユム俳句というんですが、それをさかいにして俳句も作った。
ですから、この病院時代というのは将来の詩人・昭夫をつくる培養期みたいなものですね。
そういった、大事な期間になったんですね。
村上 そこが出発点になったんですね。相当遅くまで起きていましたね。夜の1時、2時というふうだっかと思います。それを親が
言うわけです。丈夫になりたかったらそんな詩なんか書かないで早く病気を治せ、というのが父親の口癖でした。
ただ、兄にしてみれば、かなり芯の強いところがありまして、親のいうこと聞いているんですが、決して素直には聞いて
いないということなんでしょうかね。
岡澤 すごく体に自信を持っていたんじゃないですか。というのは、H氏賞をもらった前後に、当時の岩手高校の校長の山中先生
に手紙を出しているんです。もう第2詩集の構想をしきりにいっているんですね。それともう一つは、俺は宮沢賢治のような
ああいう最期は遂げたくないということを書いているんですね。というのは、俺は賢治と違ってもっと活躍するんだ。
出来るんだという自信、自負心みたいなものを持っていた。ですから恐らくずっとまえの段階ですからね。このサナトリュム
から退院したのは。ですから面従腹背といいますか、お父さんからは体を気遣って注意をされるけれども、恐らく自分は
自信があって大丈夫たという気持ちでやっていたと思うんです。
村上 退院してきてからは回復期ということで、すごく気分も昂揚していたんじゃないかなと思います。それでずっと家にいたわけ
ですれど、このあたり兄のやっていたことは、まず散歩などしょっちゅうやっていましたね。どの辺を歩いていたのかな、
と思い出すと、一つのコースは岩山だったと思います。もう一つは川端を歩くのが好きだったのじゃないかと思うんですけど
中津川沿いをずっち歩くと浅岸のほうまで行きますし、あの辺のところでなかったでしょうかね。
それからもうーつは古本屋に行ってたんじゃないか思います。自分には収入がないものだから、親からいくらかの小遣いを
もらって、それのほとんどは本代に消えていったんじゃないかと思うんですが、兄が持っていた本で新しいものは見たことが
ないんですよ。裏に何円とエンピツで書いてある本ですからね。古本屋というのは上の橋のたもとにある、あそこじやない
かと思うんですが…・。
岡澤 あそこが一番近いですもんね。
村上 さまざまな本を買ってるわけですけど、多分そこで買ってる本というのが仏教書とか、戦前の文学書なんか・・・。
岡澤 仏教に対して、関心が随分あったんですね。
村上 にでも興味をもっていたという感じでした。手当たり次第に読んでいたという感じでした。
岡澤 恐らく、上の橋と紺屋町の火の見やぐらの隣の隣りにあった小田島書店あの辺がコースからいって一番近いところですね。
多分、そのへんのところが古本を収集する道だったかも知れませんね。
村上 それから、ひとつ恵まれていたのは家にもだいぶ本があったんですよ。この本というのは父親が買ったのではなく、私達の
母方の叔父ですね。陸前高田のほうに住んでました。名前はちょっと度忘れしましたが、若くして死んでいるんです。
かなりできた叔父かと思います。生きていれば本家を継いでいたと思います。20何歳かで死んだのかな、30前後で亡くなった
のかも知れません。早稲田に入っていたんです。さすがあの頃の大学生というと大したもので、もっていた本というのは
立派なものでした。
岡澤 今、本家さんというのは?。
村上 立派に続いています。それの蔵書をかなり家へ持って来ていたんです。それも、結核で死んでいるものですから、父親に
してみれば細菌がついているんじゃないかと、一応は消毒したんですが、なるべくこの本は見るな、というわけです。
家にもかなり持って来ました。まだ残っているかも知れません。岩波文庫なんかはほとんと揃っていたんじゃないかと
思います。それからは私も見ましたけれど、兄は恐らく全部見ているかと思います。そういう点で恵まれていたという
こともありますし、結構その叔父から、間接的な影響を受けたんじゃないかと思います。
親戚の中でも陸前高田あたりから早稲田へ行くというのは、なかなか当時はなかったじやないかと思います。
岡澤 当時はそうでしょうね。やはり、そのへんを新しく環境として開いてもらいましたですね。
村上 兄からすると、あまり歳の変わらない叔父だったと思うんです。
これは母方の方も関係ありますけど、父方の方の親戚ですね。
岡澤 父さんのご本家てすか。
村上 そうです。関係からいうと叔父になるのかな、父親の兄貴の子供、従兄弟だけど複雑なんですよね。狭い地域の何十代と
なく続いてきた何軒かの家の往ったり来たりの縁組みですので、叔父の関係になってみたり、いとこの関係になってみたり、
私らも今、非常にむずかしくて諦めてしまう感じですね。そこいらの関係では。
岡澤 血液の交錯が非常にこう、2回も3回も混じり会うんでしょう。岩手県のちょっとした町、村もそうかも知れませんが、山村
だとか町方では大体、そういう傾向が強いですね。そうですか・・・。そういう若くして亡くなった叔父さんの影響もあっんで
しょうね。
村上 兄とあまり話しをしたことがないと思いまが、そのへんちょっと分りませんが。
岡澤 でも、本を通じて伝わってるものがあるでしょうね。
村上 このあたりまだ、一生懸命に詩を作ってたんですか、随分と夜遅くまで作っておりました。話しを聞いたことがあります。
ひとつの作品ができるのにどのぐらい時間がかかるのかと。まず日報の文芸欄に投稿しているわけですね。あれの締め切り
が1週間に1回位なのかな、月に1つとか2つは投稿していたんじゃないかな。加賀野の家の一室、下のほうの部屋を与えられて
そこに木の机を置き夜遅くまでやっていたんですね。1つ作るのに1週間から10日位かるんだと聞いたことがありました。
1つの言葉を、これにしようか、あれにしようかということで2日も3日もかかるという話しでしたね。そんなものかなと思って
聞いていましたけれど。そのあたりは、主に趣味と言うと変ですけど、外歩きや友人達との交流などをしておりました。
詩人仲間ということになるんですけれども、大坪さんのところへ行ったり、高橋昭八郎さんのところに行ったりとさまざまな
交流があったようです。これがいかにも楽しそうでという感じでした。
岡澤 ちょうどその頃、サナトリユムにおられたときに奥様と、俳句か何かで‥‥。
村上夫人 そうですね、俳句もありましたし…。あの頃は僚友でした。
岡澤 奥様からみて、どういう僚友てしたか?わがままでしたか、おとなしかったですか?
村上夫人 わりとおとなしかったんですけど、活発というか、サークル活動などはかって出るというようで、面倒見が良くて好きなようでしたね。
岡澤 そうですか、じゃ、それこそ療養中もそういう面では助っ人を?
村上夫人 そうですね、20人の大部屋にいました、その部屋にいる患者は軽いほうでしたから重症患者の病棟を見舞って、それなりに面倒
を見て、投句を集めて歩いたりするのが好きなようでしたね。いくらかでも、弱ければ弱いなりに人のためになるというか、
自分より弱い者を助けてあげるということに楽しみがあったのかも知れませんね。退院してからも度々まだ退院できない患者を
見舞いに来てましたね。
岡澤 すると、奥様より先に退院なさったんですね。奥様は何年頃退院なさったんですか?。
私はずっと、33年まで入院していました。
昭夫さんは28年に退院してますから、それから5年後に奥さんは退院してくるわけですね。
村上夫人 一番盛んな、詩の黄金期はやはり、30年から34,5年迄のようで、今見ても詩が輝いているのはその頃てすね。
岡澤 つまり自分のもっている命というものを、この数年の中に燃焼し尽くした感じがありますね。やっぱり命数というものを、この
数年というものを、ある程度予感、自分は第2詩集を作るんだ、というようなことで張り切ってはいるけれども、やっぱり命数に
ついてはある程度、予感というものが本能的にあり、とにかく時間を惜しんでサークル活動を集中的に続ける、それがまた命を
縮めるというようなことになるんでしょうね、結果的には。でも命数というのを予感する中で、どうしても作らざるを得ないという
本能的なものがあると思うんですけれど、そういったことでこの数年というのは確かに燃焼し、燃焼し尽くしていったんだろうと
思うんですね…。そうしますと、退院後の生活というものは、散歩、作詩、友人の家に遊びに行ったり、そういったことが日課
だったんですね。
第1回の座談会の時に大坪さんにそういう側面を語って頂きましたけれど、もうちゃんと昭夫さんの座る場所が我が家には
あって云々、という話しですね。そういうような交流の断面というのは聞いておりますけれど、何かまた、達夫さんの目
から映ったものがあれば・・・。
村上 そうですね。思い出してみると今のは話しのように充実した時期だったと思います。家に帰って来ても様々、その日の出来事
といいますか、誰の家に行ってこんな事があった、誰と会ってきたという話しが主だったと思います。ただ、死ぬ話しはほとんと
しませんでしたね。恐らくそんな話しをしても家族は聞いてくれなかったでしょうね。父親をはじめとして。
ただ、日報に投稿しますよね、そうするとその結果というものを本人はすごく気にして、例えば、新年文芸展でしょうか、元旦の
新聞こ載ってくるわけです。もちろん兄の場合は毎年出していると思うですが、その結果がすごく気になったと思うんですね。
朝早く起きて新聞をとりに行って、自分の作品が載っていないときにはかなりがっかりしたような感じしているのを見たことが
あります。私しらも、もちろん親も楽しみにしてましたが、自分で載ると嬉しいものですから。
村野先生とか選者の批評をいつも見ておりましたけれど・・・。
岡澤 ああ、そうですか。それから何か、野良犬とともに宮静枝さんの家を訪ねたという、犬の名前は〝クロ〟と呼び親しんでいた、
とありますが、クロというのは飼っていたんですか?。
村上 半ば飼っていたという感じですね。鑑札も何もつけていませんでした。クロが初めに来たんです。まだ子犬の頃でした。
2日か3日、向かいの家にいてから、うちのほうに移って来たという感じなんですね。特別どこの家にいるということもなく、
家に居ついたという感じなんです。クロ、その次に、まだいるんですよね。3匹いました。クロというのは名前のとおり黒い
雑種です。足が短くて犬としてもさえないといった感じです。ニワトリに追いかけているところを見たことがあります。
それから、似たようなこれもさえない〝チビ〟という犬がいました。クロもあまり大きくありませんでしたが、チビはクロより
ひと回り小さく、茶色がかって白のぶち模様の入っている犬てして、お尻の回りにてきものなんかできていました。
そこに兄が軟膏のようなものを塗るのを見たことがあります。治そうというつもりだったんでしょうか。
それからその次にきたのが〝チヤコ′という名前のメス犬じゃなかったかと思いますが、これは立派な秋田犬系の犬でした。
一時、3匹いたんですよ。めいめい居るところでが決まっていまして、1匹は物置きあたりに居ました。それから1匹は縁の下、
あとは台所あたりという感じで住み分けてしておりましたね。そうして、遊ぶ時は3匹いつも一緒に連れたって、当時は犬達も
自由でしたね。そして兄のあとに付いて岩山に行く、それぞれ犬の性格というのもありますから、途中で帰ってくるのもいます。
だいたい最後まで付いていったのがクロだったか思います。一緒に帰って来たのがはクロじゃなかっかと思います。
まず、1人と3匹、4匹で歩く姿がありました。年に何回か保健所から犬の捕獲人が来るんです。野犬狩りですね。リヤカー
引っ張って、棒を持ち、針金を持ってきて犬を捕まえて連れて行くわけなんです。それが来ると分かるものですから、兄は物置
の中に3匹と一緒に入って立ち去るまでそま中で、なにか犬連と小さい声で話していました。ドテラなんか着て、そんな覚えが
あります。クロだけは最後に届けを出して鑑札を貰いましたが、これにはわけが有ります。結局捕まったんです。
捕まって保健所に連れて行かれた、びっくりして兄が飛んで行きましてお金を何百円か払って鑑札をもらって連れてきたという
事です。これが一番長生きしたのではないでしょうか。恐らく、26.7年あたりに家に来て飼われるという形になったんですが、
最後、赤袰に引っ越すまではいました。あと犬達は、綜局、途中で捕まったり何かしたりしていなくなったんじゃないかと
思います。

この頃のことだかなと思いますが…・、兄が私にめずらしく詩についての話をしてくれたことがありました。
ところがこれは詩ではなかったんですね。実はこのあたり、兄は小遣いというのがほとんど不自由状態であったと思うんです。
赤袰に行ってからだと思うんですが、兄の好みそうな本というのは大体、見当がっていましたから私が買ってくるんです。
それでさりげなく窓に置くわけです。そうすると喜んでそれを見てましたけれど、ある時1冊の本を見ていて「これが詩だ」、
言うんです。ところが詩の本じゃないんです。何の本かと言いますと、題名は忘れましたけど、キッシング・リンクの何とか
という本だったと思います。中身をいいますと人類学の本なんですね。人類学の本で、作者はリーモンダートという人類学者
だったと思いますが、当時、人類の祖先捜しが一つのはやりでして、化石の発見者で、一つの夢を持っているんですね。
そういうものを捜して、人類の祖先の段階の個々の欠けている部分を埋めていくというのがミッシング・リンクというのだと思いま
すが、オーストラロピテクスという猿人だかを発見した物語なんですよ。むそれを読みましてえらく感激して、これが詩という
ものだ、言う。その頃は何のことなのかちょっと分りませんでしたけれど、あとで思い返してみますと、結局、兄の一つの考え方
だと思うんです。一つの夢として、人生観とか哲学をもっていて、されをそのとおりに生きる、夢なら夢を追いかけて行って
それを言葉なり何なりにしたのが、いわゆる詩なんじゃないかというふうな感じを受けました。てすから、あとで賞をうけてから
さまざまな人達が自分の詩を送ってきて批評を求めるですか、その時、たいていの詩集をみながら、これは詩では
ないと言う。彼の目から見ればそんなふうだったんじゃないかと思います。
岡澤 途中であれですけど、新宿の紀伊国露のホールの授賞に、お兄さんの代理に出席した弟さんはどなたですか。
村上 あの時行ったのは和夫です。これは間違いありません。
岡澤 仙台におられた?そうでしたか‥・。
村上 その時は、兄はだいぶ体が弱ってましたから。
岡澤 その弟さんは今も仙台にいらっしゃるんですか?そうですか。
松見 お会いすれば、お話しが聞けそうですね。
村上 会えば、むしろ私よりそっちの方がさまざまな知らないことを知っていると思います。歳もわずか数年の違いですし。
岡澤 それにさっき家督の問題でちょっと、和夫お兄さんから達夫さんがお聞きしたということ、という、兄と弟で何かそんな会話を
なさったのかも知れませんね。
村上 ちょっと記憶が曖昧ですが、私の弟の成夫ですね。成夫がそんなことを話していたのかも知れないです。
岡澤 ほんとに貴重なお話しを沢山、何気なく話されたなかにも、詩人・昭夫の発生に繋がる問題が幾つかあるわけです。
これは、これからまた分析したり、膨らましていかなきゃなりませんけれども。
そういった点でほんとうに楽しい、興味深いお話を沢山お聞きしました。それで今回だけじゃなく、また機会をもってお聞きしたい
と思います。
村上 私のほうも探せる資料とか、母なんかもう84歳になりますから、そろそろ危なくなってきたという歳なので、話しの
聞けるところを纏めておきたいとと思います。
松見 今、お宅にいらっしゃるわけですか?。
村上 私と一緒に住んでおります。
岡澤 ほんとに、これまた整理しますと、誰も知らない世界というのがございまして。いいですね、詩の世界に暮らした昭夫さんと
全く変わらない日常生活が、植物を見たり、動物を見たりですね…。
昭夫さんが山中先生に書いているんでけれど「中学時代は無口で、いつも静かに笑っている。そういうおとなしい中学生で
したが、その時に、私は時間と空間の対話、会話をしていたんですよ」ということを詩人らしく書いていたんですね。
その内面風景というものは誰も知らない。

なお、余談ですが。
「私は中学にいた子供のときから、時間と空間との対話を始めておりました
にこにこして歩いていたのはその時だったと思います。J
というのがありましたが、その辺のあたり、今日のお話の中にも・・。
今日は大変に中身の濃いお話しを聞かせてもらいまして、有難う御座いました。