石桜振興会(現石桜同窓会)主催

       座談会【村上昭夫を語る】 録音記録文復刻再録

             第2回 平成元年(1989)9月20日  於 きのえね支店
                  【出席者】 松見得明(同窓会長)、岡澤敏男(同級生)、山内健一郎(同級生)、一戸成光(同級生)
                         古舘敏夫(同級生)、足澤 至(同級生)、西在家寛(後輩生)、村上照五郎(後輩生)
                         安沢亜希子(記録係)


岡澤
(司会)
今日は皆さんに、村上昭夫の満州時代につい語っていただきます。会長の挨拶にも触れていますが、昭夫にとって満州は、
後の詩人形成の底流になっているのではないか、と指摘されながら全くといってよいほど空白のままです。この時期の昭夫の動向の解明
が彼の詩業を知るうえに重要です。そういった意味で昭夫と一緒こ満州こ行かれた山内、古館君に出席していただき、今夕はかなりいい
話題を提供して貰えるんじゃないかと期待されます。
まず一戸君におたずねします。昭夫の満州行きの火つけ役だったそうですが。
一戸 れわれは日本鋳造鶴見工場に学徒動員でいっていて、寝泊まりは川崎の紫雲寮だった。20年(昭和)の3月頃、監督にきていた
牟岐先生に満州行きを勧められたんだ。
古舘 3月ではない、1月か2月だったはずだよ。
山内 満州行きがきまったのでキップを渡され、急遽帰盛したのは3月10日の東京大空襲の翌日だった。焼け跡を歩いて上野駅まで行ったことを
鮮明に覚えている。そうすると、やはり3月だろうか。
一戸 たしか3月だ。同級の仲間が進学で帰省したりしていたもんだから、居残り組はなんとなく寂しかった。そこへ満州の官吏募集の話しだった。
満州の大使館から人事官がきて募集したんだな。私は牟岐先生から声をかけられたんだ。それで居残り組を誘った。山内君は同室だった
から真っ先に誘った。人事官の話は、満州は空襲もなく食い物も豊かで、当時のわれわれにはすごく夢がそそられるような話しぶりだった。
応じたのは私と山内、村上、古舘君のほかに折目彪君だった。即決で採用ときまった。
岡澤 みんなを誘った一戸君はなぜ渡満しなかったの。
一戸 満州に行くために盛岡に帰ったら、渡満のビザやら交通費が自宅に送られていた。親父がカンカンなんだ。事情を説明ししてもだめで、
親父が断わりの手紙を添えて、それらを直ちに送り返してしまったんだ。それだから、山内君のお袋さんから随分恨まれたよ。
岡澤 これで、昭夫が満州こ行くきっかけについての背負といったものがわかった。たしか山内君は上田、村上君は加賀野、古館君は天神町で
浜田君は桜城小学校のあたりだったね。それで、満州行きは何時だった?みんな同じ汽車で行ったの?
山内 3月中旬だったな、古館君?
古舘 そうだ。しかし、同じ汽車だったかなァ。
山内 下関で一緒だったから、多分同じ汽車だ。
岡澤 盛岡商業出身のKさんのはなしでは、乗船したのは博多だったそうてですけれど・・・。
山内 下関に結集して伊藤旅館に泊った。その晩に空襲があって防空壕に避難した。港湾がやられたもので博多に移動したんだ。
岡澤 昭和20年3月といえば戦争も大変な戦局を迎えていた。3月17日に硫黄島の日本軍が玉砕している。3月23日には米機動部隊が
沖縄本島の爆撃を開始しているんだ。渡満するのは、そんな時期に渡満していたわけだから、輸送船も乏しかったんだろう。
Kさんの話しでは博多で数日の足どめを食ったといっていた。乗船したのは3月15日から20日頃だったようだね。当時のそんな船の手配
からみれば村上君たちもKさんとひとつ船だったと考えてよいだろう。
山内 多分そうだとおもう。釜山から2泊3日で新京に着いた。3月24日、25日頃だった。
岡澤 新京特別市だね。そこで訓練があって・・・。
古舘 南嶺大同学院付属中央訓練所というところで約1ケ月の訓練だった。4月末に配属がきまり私は北安省公署総務課勤務だった。
山内 私も北安公署の開拓庁産業課に所属した。
岡澤 村上君はどこに配属されたの?
古舘 賓江省公署の勤務とは聞いていたが、どんな仕事だったか不明だ。
岡澤 賓江省といえばハルビンのあるところだね。Kきんの話では、新任地の選択には、自分の意志も加味されたといっていた。Kさんは、
万が一に備え、朝鮮に近いところという考えから東満総省(牡丹江省、東安省、関東省の3公省を統括)を希望したそうだ。
古舘 必ず希望した通りとはかぎらない。私の配属先は第3希望のものだった。
山内 一応希望先を書いて提出した。昭夫はハルビンに憧れていたようだから、賓江省を希望したのかも知れないな。
岡澤 当時のハルビンに2年ほど滞在した友人の話では、ハルビンはロシア人の作った町で、たいへんエキゾチックな風情をもつ粋で静かな町
だったそうだから、村上君の気質に合っているかも知れない。偶然かも知れないけれど、彼がここを希望して着任したとすれば、
非常に興味をそそるエピソードだね。
ところで、浜田君はどうしたの?。
山内 よく分からない。村上君とは別の地域に配属されたようだ。
内地へ帰国したかどうか。その消息さえも全くつかめないんだ。
岡澤 同級会でたずねてみたが誰にも消息が分かっていない。或は彼が満州の村上君の証人であるかも知れないから、どうしても消息が
ほしいな。
それぞれの勤務先がわかった。その後両君は村上君と音信をとったりしたの?。
山内 5月に別れてから7月まで会う機会がなかった。しかし、7月になって戦局が怪しくなったので、軍需工場から病人、中国人労働者が逃亡
するようになった。そこで、われわれに動員がかかった。官吏挺身隊といってね。
岡澤 おやおや、学徒挺身隊から今度は官吏挺身隊か。
山内 そうなんだ。ハルビンの郊外、徒歩で3時間くらいかな、孫家(そんじゃ)という村の飛行機工場の工員となった。キー8・4という戦闘機を
組み立てた。ここで村上君と一緒になった。宿舎は2段ベットになっていて、私は下段昭夫は上段だった。8月のある日、広島が新型爆弾で
ちやめちゃになった情報を耳にして、私は昭夫に日本はもうダメだなと言ったら、昭夫はこんなときこそ勝つ方法を考えるべきだと
猛然と反論してきた。まじめな男だと思った。
岡澤 敗戦の日までそこでがんばったの?。
山内 8月9日の夜だった。熱い日で、工場の外の原っぱで酒を飲んでいたら、ハルピンの空に飛行機が5.6磯飛んでいて、照明弾を落とし
たんだ。ソ連機だった。翌日、ソ連参戦を知った。工場では兵器づくりが始まった。兵器といってもジュラルミンで竹槍をつくり、刺し違えでも
しようということだった。その作業中に金属の破片が目に入り、ハルビンの満鉄病院に入院したので、私は終戦の知らせを
この病院で知った。
古舘 ソ連参戦で情勢ががらっと変った。関係書類の焼却やら工場閉鎖の準備にとりかかった。そして、私たちは13日頃工場を引き払った。
兵隊は残留したようだった。
岡澤 村上君も同じだね。それからどうしたの。
山内 任地の北安に戻った。しかし汽車はもう満鉄の手から中国に移ったわけだから、規律なんかなくなって、どこだりに停車ばかり。
古舘 私もひとまず北安に帰任した。
山内 そうだと思うう。ハルビンは孫家からそう遠くないので、私らより早く帰任したはずだ。しかしソ連軍の侵入も早かったから治安が悪く、
村上君は新京に脱出を図ったと思う。北安もやはり内戦の危険にさらされていて、私たちも新京に移動したわけだが、車内でしばしば略奪
にあい新京駅に着いたときには手拭いに縫いこんでいた300円しかなかった。当時の新京生活は1日に最低10円は必要だっから1ケ月
しかもたなかった。8月の末だった。それから約1年、いろいろなことをして食いつないだ。
岡澤 満州こ来て僅か半年で失業させられたんだから、そりゃひどいな。
古舘 パニック状態の巷に丸裸でほうり出されたわけだ。もう自分の命は自分で始末しなければならなくなった。
山内 新京は安全だというので、逃げてきた日本人の難民でごった返ししていた。20数万人にもなったそうだ。私たち北安省から
来た者は、市内の白菊小学校に収容されることになった。昭夫は賓江省だから一緒じゃなかった。
岡澤 引揚げになるまでどんな暮らし方だったの?
山内 シベリヤ送りになった首都警察高官の官舎に住み込み、その夫人、家族の用心棒をした。収容所の独身者に依頼がきた。食べたほかに
若干の小遣が貰えた。それも2、3ケ月だけで、留守家族のお金が続かなかった。そこでこんどは御用聞きをやった。日本人から注文をとり
満人街に行って食料、薬剤などを調達して利ザヤを稼いだ。チャンチュウは儲かった。老酒1升を20円で仕入れ、日本人市場に並べて
おくと40円から45円になった。
岡澤 村上君もそんな具合にして暮らしていたんだろうか。
山内 昭夫が街頭でタバコ売りしていたのを見た。11月頃だった。声をかけると、昭夫は笑顔で「変わりない」と返事した。しかし一度っきり
だった。同じところで商売をすると日本人狩りに遇うから、場所を変えるわけだ。
岡澤 日本人狩りというのはどんなこと?
山内 日本人が支配ていた頃は酒人や鮮人を路上で狩りだして使役につかった。それが反対になった。今日はどこそこで日本人狩りをしている、
という情報がしょっちゅう開かれた。街頭の売人は狙われやすいからな。
岡澤 村上君のタバコ売りもそれで駄目になったのかな。山内君はブローカーみたいな商売をずっと続けたわけなの。
山内 いや、冬になってからは砂糖製造の手伝いをやらた。満人からピートを手に入れ、それを煮つめペクチン酸で結晶させたりした。それも春頃
までだった。その後菓子工場を手伝った。私の着想でハート型のアワオコシを作ったら売れに売れた。7月になって、引揚げ情報がたつ
ようになった。今度は引揚げ者の家財の処分を依頼され、それを満人市場で売りさばいては手数料を稼いだ。こんな風にしてどうにか生きて
内地に帰ることができた。
岡澤 18、9の年ごろでよくやったなァ。古館君はどうでした。
古舘 私の場合は山内君とは比較ならないほどラッキーだった。新京に移動したのはあまりはっきり覚えていないが、8月中だったと思う。
私は白菊小学校には住まなかった。役所の上司と一緒に空き家になっていた社宅に同居できた。どういうわけか、この上司に目をかけて
もらったんだ。上司はなにかうまいテヅルがあったのか食料品店を開業して、私はその店員として引揚げまで暮らすごとができた。
よく満人市場に仕入れにいったものだ。しかし、昭夫には一度も会わなかったな。
岡澤 古舘君の例はレアケースなんだろう。でも、そういう生活もあったんだ。山内君と古館君とは、当時のライフスタイルの両極を語っている
と思う。満州の村上昭夫の在り方について示唆にはなった。ところでこれだけは両君に伺っておきたい。従来村上昭夫の年譜・評伝類
には、明らかに誤伝と目されるものが散見するので検証していただきたい。
例えば昭夫が「航空機工場に挺身隊として入り、さらに臨時召集兵となり入隊」ということ、そして「終戦後シベリアで3ケ月抑留生活を送っ
た」などがある。事実はどうだろうか?
古舘 確かに満18才以上の者に臨時召集の話のあったことは開いたことがある。しかし村上君は該当しなかったな。
山内 昭夫は2年(昭和)1月生まれだから免れたはずだ。シベリア抑留説は作り話だろう。現に11日頃、新京の街頭で昭夫に出会い声を
かけているもの。孫家の飛行機工場に8月13日まで居ったわけだから、臨時召集はなかった。あと2日で終戦だ。さらに、昭夫が11月
に新京に在住していたという事実がある。ハルビンからの移住が早かったことを思わせる。遅く移住して来た者は満杯なので、南下させられ
たはずだ。街頭でのタバコ売りは、新米者ではないというアリバイでもあった。
岡澤 両君の証言で満州の村上昭夫について幾つかの窓が開かれたが、まだ不明な部分も残されている。しかし、敗戦から帰国に至る昭夫の
1年間の生活は、山内、古舘両君に共通する険しい生き残りの時間を過したことを強く認識出来ました。そういう意味で両君の生活記録は
極めて貴重なものだと思います。とにもかくにもよその国で向かえた敗戦。周囲は皆敵国の人で、支配者と被支配者の立場が逆転した
政治状況のまった中で、よく生きてこられたものだと思う。日本人が日本人を密告して何人もの人が処刑されたり、シベリアに拉致されたと
いう噂。偽名を使って暮らしていた人もある。同胞ほど怖かったという人もいる。そんな極限状況にまる1年漬かって生きてきたわけだ。
しかも18歳だろう。平時には一生かかってもみられぬほどの沢山の人の生死、人間の尊厳と醜悪を1年間で見てしまったわけだ。
村上くんのように感受性の強い理想主義者には、随分こたえた現実だったろう。昭夫の詩集「動物哀歌」に落とす満州の影というものを、
改めて理解されたような気持ちがします。
松見 「終わりの挨拶」