石桜振興会(現石桜同窓会)主催 |
座談会【村上昭夫を語る】 録音記録文復刻再録 |
第5回 平成4年(1992)1月10日 於 京 極 |
【出席者】 松見得明(同窓会長)、岡澤敏男(同級生)、足澤 至(同級生)、西在家寛(後輩生) |
村上照五郎(後輩生) 高橋昭八郎(岩手県詩人クラブ) 宮 静枝(岩手県詩人クラブ) |
石井(記録係) |
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松見 |
私は第1回の卒業生で、松見と申します。高橋さん、あるいは宮さん、お2人とも岩手高等学校にこういうことをやる組織があるこ |
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とはご存じないと思います。現在も同窓会の会長をしております。もう一つは文化活動のようなものを主体にするところのセキオウを、 |
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セキオウは石の桜と書きまして、「石割り桜jを学校の一つのシンボルとして、代々受け継いできているのですか、その石桜精神を発揮し |
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た人、あるいは、しようとしている人、そういう人たちに、振興会の財政の中から微々たるものですが、ご援助をしているわけです。 |
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たとえば、今朝のテレビに出演していました佐々木修一先生が、超伝導や注射針の処理を物理班の生徒に指導している。生徒も喜んで |
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やっていて、それなりの成果をあげている。 |
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スポーツ関係でも、全国大会の出場することがあると振興会から報償金を差しあげて、ますます石桜精神の高揚に務めてもらいた |
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いと、このようなことをやってきています。 |
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村上昭夫君の件についても、数年前からいろいろ資料を集めたり、大坪さんや関係のある方々をお招きして、村上昭夫についてのお話を |
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承ったりしました。埼玉県に「村上昭夫を語る会」があって、そこからも援助を受けています。村上昭夫の研究をして、素晴らしい業績を |
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讃えていきたい。そしてご存知のとおり『動物哀歌』も全部無くなってしまって、復刻、再版してあげたらどうかいうことを考えたりしています。 |
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それからお向かいに座っている岡澤さんが村上昭夫君と同級生です。それでなんとか「村上昭夫についての資料をもとにして、 |
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一筆書いて呉れないかと」という重責を背負わせたわけです。 |
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村上昭夫についての伝記ではなく、「村上昭夫を語る」という気楽なかたちで村上昭夫について1冊の本を作り、それを生徒や父兄にも |
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読んでもらって、岩手高校の卒業生にはこういう人もいるんだと知らせたいのです。 |
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そのことが、後輩の生徒にとって「何かまたやろう」というよすがにもなるのではなかろうか、ということで継続しているのです。 |
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私たちは、村上昭夫が生まれたという、大東町の町長さん宅におじゃまして、いろいろ見学をしたり、お話を伺ってきたりしています。 |
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お聞きしたところでは、村上昭夫がサナトリウムに入院加療している時に、高橋さんとご一緒になり、非常に素晴らしい巡り合わせの下に |
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村上昭夫が成長していったと聞いて、ぜひ高橋さんにも村上昭夫のお話をしていただきたいと考えています。 |
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また、宮静枝さんも村上昭夫と深いご縁があり、お話をお聞きしたいと思います。今すぐというわけにはいきませんが、将来、村上昭夫に |
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ついての1冊をものしたいと考えています。 |
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今日はそういうことで、おふた方に、お忙しいところをわざわざご足労いただきました。お話をお聞きした後での座談会で、時間が許す限り、 |
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またお聞きしたいと思います。夕方までごゆっくりお話を聞かせていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。 |
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付け足しですが、去年、村上昭夫の弟さんが工業高校の近くの、矢巾の教頭さんをしていらしやることを聞きまして、仙台にいらっしゃる |
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村上昭夫のすぐの弟さん、それからここで芸術的なガラスをやっている弟さんと、お3人に集まっていただき、村上昭夫のお母さんも交えて |
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色々お話をお聞きしたこともありました。一生懸命やってはおりますが、やっているわりには遅々として進まない現状ですので、お2人にも |
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お力添えをお願いしたいということでお招きをしたわれですので、宜しくご協力お願いしたいと思います。 |
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挨拶は以上で早速お願いします。 |
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岡澤先生は村上昭夫の同級生なんですが、満州までは一緒に行かなかったようです。 |
岡澤 |
僭越でございますが、進行係りをさせていただきます岡澤でございます。足澤先生も私も中学時代は彼と1つの教室の中で生活し |
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たわけですが、なにぷん村上昭夫の文学開眼というのは、後になってから、しかも寿命がその後10年ちょっとしかなかったという晩年に |
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なって、にわかに開化したというところがあります。昔の思い出のなかではおとなしい少年というイメージしかなくて、文学というジャンルで |
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は記憶にないのです。そういう同級生が、突如として詩人になったということで、実は私たちも奇異に思ったのです。 |
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その後、落ち着いて彼の足取りをたどってみると、まず盛岡郵便局に勤めて文化活動をやりました。そこでは歌声運動が中心で、 |
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その中でたまたま機関誌を編集したり、あるいは雑誌の編集をしたりしたのです。そうしているうちに雑文を書いたり、あるいは小説を書い |
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たりということが多くなり、文学の下地ができていったようです。文化活動はどちらかというと「心の畑を耕す」ともいえますが、一方で |
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体力を消耗するだけの活動に陥りがちでした。戦後の難病であった結核になって、山岸の、今の岩手医科大学附属岩手サナトリウムには |
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入院するという段階でした。当時は短詩形の俳句の仲間に入り、そういう俳句を作ったりしていました。そこに高橋さんが登場し、詩の道に |
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彼を導いてくれたのです。このきっかけが彼を詩人にさせたのでした。私たちはそのことを年譜やその他で初めて知ったわけです。 |
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結核は社会的に非常に孤独感を強いられるような病気でした。詩の友達と楽しく話したり、時には絶望的になる段階で、近所に住んで |
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いらした宮さんにいろいろと慰められ、励ましてもらいました。当時、大坪さんという立派なばくろうさんがいて、梁山泊の一角に知人 |
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が集まってウイウイ、ガヤガヤと話しして、そこで詩人としての、いろんなアイディアとか生き方などの話を聞いて刺激されたのですが |
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やはり村上昭夫の詩は始めからそれほど評価されたわけではなかった。その中で、宮さんは彼を励ましてくれた。そのことが彼に自信を |
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つける基となったのではないでしょうか。今日、おふた方に出席していただいたのは、特に詩のジャンルに彼を押し込んでやったこと、 |
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彼に非常に影響を与え、励ましたという点についていろいろお聞きしたい材料が豊富にあるからです。よろしくお願いLます。 |
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最初、サナトリウムで会った時の昭夫君はどうでしたか? |
高橋 |
私が村上昭夫さんと初めて会ったのは、昭和25年の7月です。私も両側の肺結核で、かなり重症でした。1年ぐらい花巻療養所に入っていま |
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した。その頃、胸郭整形手術というものがどんどんできる時代になっていたのですが、ストレプトマイシンが出たばかりで、特効薬はなかっ |
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たのです。パスというものは出ていました。私の場合も、手術で直るのではないかというので、岩手医科大学に1年後に入院しました。 |
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入院するのにも何カ月もかかりましたが。 |
岡澤 |
ベッドがいつも満杯で、なかなか入院できなかったようですね。 |
高橋 |
そうです。昭和25年の7月に岩手医大附属サナトリウムに入院しました。病室は東12号室でした。病棟に入って左側の大部屋に・・・。 |
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20人以上の患者さんが入っていたでしょうか…・その部屋に詩を書いたりしている人がいるから紹介してあげようと言われました。 |
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誰に連れて行ってもらったか忘れましたが。村上昭夫さんを中心として俳句がわりと盛んでした。すでに亡くなられた村上トモシさんも、 |
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今考えると同じ部屋におりました。村上昭夫に会った時は、静かな、痩せギスの、ほっそりした、村上昭夫フェイスというか顔とスタイル |
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でした。ノートを見せてもらいました。私もずいぶん若くて生意気な時ですから、いろいろなことをさんざんしゃべったりしながらノートを見 |
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せてもらったのです。その頃は幼い詩というか、俳句も書いてありました。サナトリウムでは機関誌を出していて、村上昭夫さんはそれに |
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原稿を書いていたようです。 |
岡澤 |
それは俳句ですか? |
高橋 |
総合雑誌です。要するに、院長さんが原稿を書いたり、看護婦さんや患者さんが書いたりする雑誌です。メモが多分後から出てきます |
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が、まだ本格的に詩をやるわけではなかったのです。今でも印象に残っていることがあります。私はあの頃、高橋真吉に関心があって |
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彼の詩集を持っていましたが、そういう意味では「五億年」などの仏教的な用語、その他についても、高橋真吉の考え方にとでも影響を受 |
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けました。 |
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『首輪』創刊号を持って来ましたが、今見ると恥ずかしいくらいボロボロです。私たちが高校時代を・・・通して発行したのは、ガリ版刷りの |
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これなんです。2号から村上昭夫君が参加することになったのです。毎日、ただ寝ているだけですので、夜になって安静時間が終わると |
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私が彼の部屋に行ったり、また彼も私の部屋に来るようになりました。そしていろんな話をしているうちに詩に対する思いが深くなって |
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いったのです。彼は毎日書き始めました。ここにノートがありますが、最初はにの人はいったい才能があるのだろうか、と思ったくらい |
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です。(笑い) |
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村上昭夫君の詩は、メルヘンぽい、童話つぼいのが多かったのです。確かに童話も書いていました。詩集には入りませんでしたが、 |
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昭和26、7年あたりから、かなり長いラリックス物語を書き始めました。「どうなのかな……、でもやりましょう」と、私たちが持っている詩集 |
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など、さまざま見たりしているうちに「現代詩集」とはっきり定まってきて、大きな機関誌もに目とおすようになりました。そういう点ではなかな |
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か負けず嫌いの人でした(笑い)。 |
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あの頃見せてもらったノートにもいろいろ書いてあります。 |
岡澤 |
それはノートをコピーしてもらったのですか? |
高橋 |
そうです。ノートをコピーしたものです。初期の作品をコピーしたノートが2、3冊あります。それは市立図書館でコピーしました。『首輪』の |
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頃はほんとうに、いろんな議論をしました。 |
岡澤 |
これは初期のものですね。 |
高橋 |
そうです。その頃のものはほとんど詩集には入っていませんでした。村上昭夫君の詩のことを言えば、私が退院して別れてから、 |
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先ほども言いましたが、ほんとうの仕事は5年ぐらいだと思います。人間というものは、1生のうちで5年ぐらいハイピークの時があるのだと |
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思ったほどでした。 |
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サナトリウムを退院して、仙台に入りました。私も北上から出てきてしょっちゅう会っていました。『首輪』の後半期から岩手日報の投稿が |
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始まって、30年代半ばで「絶唱」と言われる詩はほとんど書き終わっていたのです。私は、退院してから盛岡に出てくると泊まる所がない |
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ので、村上昭夫君の所で昼食や夕食をご馳走にになったり、泊り込んだりしたものです。その時にこのノートを何回も見せられました。 |
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「1千編、詩を書く」といっていました。俳句は言葉を勉強するものだと割り切って、どんどん詩の分野に入っていきました。 |
岡澤 |
ノートはこの他にもたくさんあったのですか? |
高橋 |
私が見たのも大学ノートで、だいたいこういうノートですね。清書したノートですから、何回も書き直しているわけです。 |
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詩集の『動物哀歌』の原稿も2つあります。同じ原稿から更に書き直したわけです。 |
岡澤 |
たしかにこれを見ますと、一つの詩が、発表したノート、日報あるいは他のものなどで、標題や内容が変わっているようですね。 |
高橋 |
そうですね。一部分変わっています。 |
岡澤 |
なるほど。たぶん、これは市立図書館で展覧会をやった時の資料ですね。これには、書かれた背景、基が大部表れていますが。 |
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ノート、荒野とポプラノート1956年。それから、ただノートと。 |
高橋 |
3冊だったと思いますね。1冊だけコピーしてもらいました。私が見せてもらったのもこれに書かれています。宮沢賢治が好きで、影響を |
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受けていたようです。ほとんど詩では宮沢賢治くらいのところで、療養中には現代詩に対する関心とか知識はあまりありませんでした。 |
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絶対安静で、そのうち手術をしましたから。 |
岡澤 |
そうでしょうね。郵政省職員の頃の散文は別として、詩となると、かなり凝縮されたものですから、その点は煮詰まっていないものでした。 |
高橋 |
そうです。ヒントみたいな、ちょっとしたメモふうな詩だけでした。ただ村上昭夫さんの人となりは、ちょっと気取ったところもありますが、 |
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静かで皆に愛され、真面目でかなり人気がありました。私たちの言葉で言うと「ゴヤッキリ」といって、結構わい談もするし、エロ本も読むと、 |
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いうことで幅はありました。 |
岡澤 |
なるほど、それではどの辺で変節されたのかなあ…・。 |
高橋 |
そうなんです。 |
岡澤 |
私たちのイメージにはそういうものはないのです。そういう仲間は別にグループがあって、その時代にはそこには勿論入りませんし・・・。 |
高橋 |
病院にいると、そういう話になってしまいますし、すべて人間性全体の表現になってしまいます。 |
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私がサナトリュムに入った後ですが、俳句をやっている中条先生・・・黒沢尻高校で教わった先生で、中条推信先生、最後は杜陵高校の |
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校長先生だったのですが・・国語、漢文などの力がかなりある、変った先生が入ってきました。その先生と3人でよく話しをしました。 |
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私は中条先生の教え子ということで「アンタ!エフンボーを読んでいるのか」とか・・・したこともあって、その頃私はランボーの翻訳なんて |
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読まなかったので、勉強しなくてはと思ったのです。中条先生はサナトリュムに入って来てから、古事記、万葉集など全部国文学を |
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読み直していました。やはりそこが私のような凡人と偉い、人との分かれ目だと思いました。 |
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病院に入って、直るか否か不安なのです。勉強してもしようがないのではないかという気になってくるのです。ところが村上昭夫君とか |
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中条先生などは「直る」という信念があるのです。だからこの間を有効に使うという感じがました。中条先生もかなりそうで1年何カ月も |
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たつと、もう「西鶴」までいっていました。村上さんも同じ部屋ですから、中条先生のものに対する姿勢には、そういう意味でかなり影響を |
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受けたと思います。私も一緒に3人でずいぶん色々話しました。絵描きさんもいましたし、色々仲間が一杯しました。 |
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これが詩の面に加えた部分てす。 |
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英語もかなり勉強していました。いつかちょっと書いたことがありますが、6人部屋で皆出払っているときに、部屋に行くと、1人だまって、 |
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ひっそりと英語を勉強していました。ですからいろんなものに対する好奇心があったと思います。 |
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去年、村上ふさ子さんから、彼の退院してからのスクラップブックを借りて見たのですが、さまざまな新聞の記事をスクラップしていました。 |
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例えば、科学記事(氷河の時代の…‥・)や、動物関係の記事などでした。コピーしたのですが、どこにやったのか見つけられなくて持って |
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きませんでした。これを見ると、「はは・・・、こういう感じだなあ……」と分かります。 |
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サナトリウム時代には、こういうことで、皆に好かれました。いつか「サナトリウム時代とナントカ・・・よということで岩手日報こ書かせて |
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もらったことがありますが、仮装行列などのようなイベントも好きでした。私は参加したのですが、彼はその時手術をしていて、参加しませ |
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でした。 |
岡澤 |
今の文章は、日報の1984年4月17日付の「サナトリウム時代の……」ですね。 |
高橋 |
そうです。その中に村上昭夫さんの一面ということで、書かせていただきました。そういう意味で苦行僧のようだと言った人もいましたが、 |
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何かに耐えているというか、遥かな何かを見ているような、姿勢の高い人だったと思います。俗人ではなかったと思います。 |
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よく、病院のお医者さんがなんたら痩せていること」などと冗談を言うと、その後私の所に来て、真面目に「人間の偉さは痩せているとか |
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太っているとかで決まるのもではない。」と言ったものです。彼にはそういうところがありました。私などと違って、彼はそういう言葉で |
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傷ついたのです。彼はそうした男でした。拳を握るというか、「武士は食わねど高楊枝j のように、辛いことを我慢しながら、ひしひしと屈辱 |
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に耐えている面があったと思います…寂しさや悲しさ、重いものを背負っているという感じがいつもありました。細身で。. |
岡澤 |
幅広くわい談も勉強していたのですね。 |
高橋 |
そういう手紙があります。「この頃はそういうものばかり、ムッタリ読んでいます。」ムッタリという言葉を使っていました (笑い) |
岡澤 |
そうですか。実際、特に結核の病気というのは、痛い、かゆいではなくで内面的なものを刺激するような病気ですね。 |
高橋 |
彼は、組合運動はやったのでしょうか? |
岡澤 |
文化活動ではないでしょうか。 |
高橋 |
文化活動ですか、ただあの頃「赤旗を読む会」というのがありました。患者同盟が華やかな頃で、昭和25、6年、岩手県のそういう療養所 |
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などで盛んでした。満州に行って来たということで、彼から毛沢東の話をよく聞きました。赤旗を読む会に私と彼と何人かで入っていま |
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した。そうすると、ある日、オルグのような人がなにげなしにお見舞いにくるんです。そして、ばっと赤旗を置いていくわけです。患者同盟の |
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オルグが村上昭夫さんを通して来たり、彼も左翼というか、そういう意識がありました。毛沢東、スターリン、仏教に影響されていました。 |
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ですから、彼の部屋にはお釈迦様の写経があり、その下にスターリンの写真が貼ってあったと思います。 |
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私は中道の部屋によく行って泊まりました。あそこは4畳半でしょうか、6畳でしょうか、今の盛岡二高の裏の所です。政治思想も |
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一つ持っていたようです。 |
岡澤 |
おそらく全逓でしょうね・・・・・・以下不明 |
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私も彼の詩を本当の表面で文学批評するのでは、何も引っかからないなあ……という感じがします。その点では、彼の詩の背景、 |
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あるいは基にはいろんな思いとか、政治思想、反逆思想、批評精神もあると思います。そういったものを露骨な形で出さないので、 |
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耐えて比喩的に出しています。今のお話を聞いて、その辺をまだまだ掘り下げてみなければいけない課題だと思いました。 |
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当時のいわば、積極的な若者が大体くぐり抜けてきた側面は持っていたということですね‥ |
高橋 |
「忍辱こそ、私の言葉のエネルギーだ」みたいなことがこの葉書に書いてあったと思います。 |
岡澤 |
ンニクではないでしようか。 |
高橋 |
ニンニクですか。ニンニクと読むのですか?確かにそういう姿勢があったと思います。 |
岡澤 |
アレではないでしょうか。お釈迦様か何かは分からないですが、仏像の絵があって、その下にスターリンの絵があったのですね。今それを |
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お聞きして思ったのですが、釈迦の思想というものは、ある意味でいえば共産主義です。だからスターリンと結びつけて考える可能性はあ |
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るわけです。ただ唯物的な共産主義と唯心的な共産主義というものは、土台が違っている。しかし表面的に見れば、仏教というのはやはり |
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共産的なものて゜すね。 |
高橋 |
人の面倒をみる。親分肌というよりは兄貴分的なところがありましたね。私などなにか困ったことがあると、慰めに来てくれるなど優し |
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いところがありました。 |
岡澤 |
兄貴肌てすね。 |
高橋 |
私などは兄貴と思っていました。彼は私よりも先に手術をしたのですが、私が手術した時には、励ましに来てくれたり、私がなにかで |
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ちょっと妥協するようなことがあると、かなり厳しく糾弾しました (笑い) |
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あの頃、新岩手詩人集団というのがありました。カタウトルヘイさんといって、今は東京の方へ行きましたが、この方は本当の左翼で、 |
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わりと過激な方でした。そこで論争までいかなったのですが、手紙を貰ったことに対して、私が原稿を書いて、つい感情的に『首輪』に載せ |
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たら、カタウトルヘイさんから、その反論がドッ ときたのです。私はそれにまいってしまって、気弱になっていました、その時、村上さん |
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だけが、そんなことでは駄目だ。そんなところまでは妥協しなくてもいいから、きちっとやれ、と言うのです。詩の情報を提供している頃は |
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私の方がイニシアチブをとっていましたが、秋頃になってきたら、兄貴分の方がだんだん上になってきました (笑い) |
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ですから、筋を通すなにか、かまえはありました。 |
岡澤 |
なるほど、おもしろいですね。 |
高橋 |
私ばかりお話ししますが、仏教になったのは退院後のような気がします。お釈迦様の写稟を貼っているということで多少の関心はあったと |
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は思いますが。 |
松見 |
宮沢賢治の影響もあると思います。 |
高橋 |
そうです。あります。これはかなり晩年ですが、「もしかすると、村上昭夫の仏教は吉川英治の仏教かなあ・・・・・・」思ったのです。 |
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仏典などはあまり読まない仏教だと思って、聞いたことがあるのです。「おれもそろそろ、村上さんに習って、仏教を勉強したいが、 |
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何がいいかなあ……」と。吉川英治の親鸞を書いているのは丹羽文雄ですか。 |
岡澤 |
そうです。 |
高橋 |
その親鸞を読んだ方が良いのではないかと言ってくれました。私はあの人の仏教はポピュラーな仏教ではないかと思っていました。 |
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ところが亡くなってから、文庫の中に経典があって、それにものすごく書き込みがありましたので、私はやっぱり間違っていたと |
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思いました。 |
松見 |
倉田百三の『出家とその弟子』なども読んでいるのではないかな・・・。あれは親鸞ですから。 |
高橋 |
読んでいると思います。私の知らないところで本気に勉強していたのですね。『動物哀歌』についてもねた本があったのです。 |
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彼が「にやっ」と笑ったことがありました。図鑑なんです。その図鑑が何であったか、今は忘れましたが、動物の切抜きが多く、例えば、 |
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鶴がどうしたとか、スクラップが多かったですね。私が行って「動物哀歌を何遍書くどこだ?」と聞いた時に、千編、書くんだ」と言った |
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のです。それで私は「そんなに続くのか?」と聞いたら「ちゃんとあるんだよ」と言っていました。図鑑を見せてくれた時もあります。 |
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例えば、ぱっと開けば「猫」が出てくるとか。極端な事ですが。そういう思いつきというかヒントでそういうテーマに出合ったことは大したもの |
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だと思います。動物図鑑を一つの取っかかりにしたようです。仏教もその手かなあ…と思ったのですが、それは違って宮沢賢治の影響を |
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受けて、書き込みのある経典などを見ても、本格的に勉強したようです。それには心を打たれました。 |
岡澤 |
そういう詩をずいぶん作っていますね。感心するかしないかは別として、作っていることは確かですね。すみません。ちょっと年鑑を見せて |
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ください。 |
高橋 |
どうぞ。 |
岡澤 |
ここに書いてありますね。昭和36年、34歳、聖書、法華経も、死の恐怖を救ってくれず、ただ般若心経だけが心の支えになった」ともらし |
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ていたということです。ですから、死にたくないもんだから、生命の恐怖にさらされると、仏教で救われると思ってそういう仏典を一生懸命 |
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と思うんです。それが何の足しにもならなかったというわけですね(笑い〉 |
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ただ般若心経にだけは、引かれて、支えになったと書いてあります。 |
高橋 |
それから俳句の高村光太郎も読んでいたようですね。ペンネームが「鈍牛j ですか。 |
岡澤 |
そうでかね。「鈍牛」です。兵士のことく、てすね。どの程度か分りませんが、光太郎は好きだったようですね。わかるんです。 |
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彼の詩の論理的なところに入っていくと。童貞とか何か、こういう、引っかかるところがあったと思うんです。 |
高橋 |
確かに、私が高村光太郎や草野心平、北原白秋、木原孝一などさまざま持っていました。それを全部回しました。 |
岡澤 |
なるほど。もちろんサナトリウム時代ばかりではなくて、その後ずっと、詩人昭夫との交友があり、また手紙のやり取りがあったりして、 |
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続くわけです。それもお伺いしたいと思います。宮さん、年譜の中からちょっと抜き書きしたのですが、確か、退院後宮さん、年譜の中 |
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からちょっと抜き書きしたのですが、確か、退院後行かれた時ですか。 |
宮 |
はい、花巻にです。お祭りの時ですか、賢治の。 |
岡澤 |
そうです。生家まで行って原稿を見せてもらったという。 |
宮 |
えー。それから、まだ早かったから……。 |
岡澤 |
イギリス海岸を散策したと書いてありますが。詩碑を見たり、ですね。 |
宮 |
賢治祭の時だと思うのですが。 |
岡澤 |
そうですね。賢治祭に参加した。これは4月15日になっていますね。年譜こ書いてあるというのは初めて尋ねたのがこの日かな?という。 |
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一度ばかりではなくて何回か行っているわけですね。昭夫さんも。 |
宮 |
いえ、そんなに行っておりません。1、3度ですね。 |
岡澤 |
確か、宮さんの文章の中にも出ていたと思います。自転車の後ろに……、という。 |
宮 |
そうです。それはこちらで詩の会に出る時に、「宮さんを乗っける」というので、「あなたが疲れるからやめなさい」と言ったのですが、 |
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「宮さんは軽いからいいんだ」と言うのです。その時はまだ、それだけの体力は彼にはありました。高橋さんのサナトリウム時代のお |
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話し」は私は全然知らないことです。家から200メートルくらいしか離れていないものですから良く行ったり来たりしていました。 |
岡澤 |
31年の12月の年譜に、野良犬の「クロ」ですね、その犬とよく散歩した。その時に県営アパートに住んでいた宮さんのお宅によく訪れた。 |
宮 |
「おとなしく待ってろよ」と言って、玄関にクロをよく待たせておいて寄ったものです。おとなしい犬なので、ずっと待っていました。 |
岡澤 |
その犬のいきさつを、この間、達夫さんをゲストに招いての座談会の時にお聞きしました。昭夫さんはたいへんクロを可愛がったの |
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ですね。ああいう、あまり格好が良くないものに、愛情を注ぐというか、同情したのですね。 |
宮 |
昭夫さんが死んでからも、前の家に戻ってきていたのです。それで、クロが私を覚えてしまって、私を見つけると追いかけてきたので、 |
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とてもたまらず、回り道をして帰りました。そういうこともありました。 |
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家には、小声でクロに話しながら、上がってくるのです。今でも声が聞こえるようです。 |
岡澤 |
大村さんと宮さんの誕生の会には…・。 |
宮 |
大村さんではなくて阿部さんです。「近くにいる人で、人形作りが上手で、文学好きな人がいるから」と言って連れてきたのが昭夫きん |
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なのです。 |
岡澤 |
この方が阿部れい子さんですね。 |
宮 |
そうです。今は仙台にいらっしゃいますが。その頃、3人で誕生祝いしょうということで岩山に行って何か作りました。「おれの紹介する |
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人は、なんでだが、いつまでも仲が良いんだなあ‥…・」と昭夫さんが言っていましたが、今だに阿部さんとは行ったり来たりしています。 |
岡澤 |
阿部れい子さんは昭夫さんが紹介してくださった人なんですね。 |
宮 |
そうです。私より2、3歳下の人ですが、昭夫さんよりは上です。それから昭夫さんが私のところに来るようになったのです。 |
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前に書いたことですが、昭夫さんが「宮さんの家に行ってきますJと言ってでかけると、おかあさんが、昭夫ちゃんに恋人ができたよ…、 |
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会いたいもんだ」と言ったらお父さんが「・…‥」と言ったそうです(笑い)。それを昭夫さんが家にきて言うもんですから、 |
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大笑いしました。ある時また宮さんに行くと行ったら、お母さんが「わたしも会いたいもんだ。どんな恋人だ?」と言ったので、昭夫さんが |
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立っていてひっくり返るほど笑ったそうです(笑い)。本当に笑いました。私が年上ということもあって、昭夫さんは安心して遊びにこ |
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れたのです。やはり仏陀、キリスト、ヘンリの話をよくしました、別に…・けど。 |
岡澤 |
もちろん、宮さんと昭夫さんの詩風は共通点はあるんでしょうが。 |
宮 |
私はいつまでたってもロマンチックですから(笑い)いつまでたっても。 |
岡澤 |
そういう点や、なにか作品など昭夫さんとおはなししたことがありますか。 |
宮 |
あるにはありますが、特に詩風がどうのこうのということはないです。 |
高橋 |
かもしれないですね。スケールの大きさなどは同じかもしれないです。 |
岡澤 |
底辺で同じかもしれないですね。 |
宮 |
女みたいじやないかしら,…‥(笑い)。ただ、昭夫さんの詩は、私もたいへん好きでしたので、最後に詩碑ということに発展して |
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いきますが。 |
岡澤 |
なるほど。 |
宮 |
あんな無責任なことをいう詩の会で、なにも気にすることはない。そういうところには一切出しませんので。投稿も好きではありませんし。 |
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だからですが、出すと叩かれるんです。 |
岡澤 |
にするでしょうね。さぼっているから。 |
宮 |
そうですね。多少は。 |
高橋 |
あの方はすごく気にすると思います。「誰も、おれの良さはわかってくれないんだjと、お母さんにもずいぶん言ったらしいです。 |
宮 |
そこに出していた人はみんな叩かれていたのです。 |
高橋 |
そうですね。ほめるということはまずなかったです。 |
宮 |
たいへん見当はずれのことを言っている人もあったし。大村さんも「ほんとうに、もう来るのをよそうか」と言っていました。 |
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私はそういうのが好きで皆のを批判しながら聞いているわけですが。 |
高橋 |
大友さんのところに集まってですか。『首輪』などでも、こういう雑誌などでも今年注目された詩人でも、『詩学』とかそういう雑誌に載った人 |
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だけ書くという傾向はありました。私は「今年は、村上昭夫じゃあないか!」と言った覚えがありますが。確かこれにも書いてありますが、 |
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「やはり、まず身の周りから、良い詩を見つけていかないと駄目だ」と言ったことがあります。周りは皆駄目で、なんとなく…・が良いみた |
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いな傾向がありますから。そういうことは破っていかないと駄目だと思います。そういうことは、村上さんなどはやはり………。 |
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超然とはしていなかったかもしれませんが、「な一に……」と思っていたところはあったと思います、村上さんも人のことはかなり言いま |
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したから(笑い) |
宮 |
あなた方は、あの時は4人で『首輪』を持って黒沢尻高校からきたのですか?。 |
高橋 |
そうです。4人ですね。サイトウショウゴ氏、アサイ…・氏、それからタカハシキサブロウ氏もいました。 |
宮 |
こんな人たちもいるんだなあ。おもしろいなあ……と思いました。 |
岡澤 |
北上の人たちはおもしろいですね。 |
宮 |
そろって来たものですから、いまだに忘れられません。 |
高橋 |
今考えてみれば、今考えてみるとなんて失礼ですが 宮さんたちもその頃は40代ですね(笑い)。意気軒昂としたたいしたおばさんだ |
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なあと思いました(笑い)。東京弁を使うし…・・(笑い)。 |
宮 |
いや、それは、空襲で焼け出されて、帰ってきたばかりでしたので。 |
高橋 |
仙台の病院に行ったことがあります。 |
岡澤 |
誰とですか? |
高橋 |
イトウモトユキとです.その頃、私たちの…・の展覧会を仙台でやっていたのです。その時に彼は仙台に入院していたのです。 |
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東北大付属抗酸菌研究所にです。また…・おとなしくなったのです。 |
宮 |
厚生病院ですね。 |
岡澤 |
不思議というか当然というか、もう一つの肺の手術もやるんですね。 |
高橋 |
あの人の場合は両方悪かったのですが、片方を手術して病原を消すと、片方が直ったりするんです。それで一時は直ったんです。 |
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初めは両方だったのですが、たしか1回日は6六本しか切っていません。私もそうなんですが、直らなくて、また片方も切りました。 |
|
彼の場合は一度直ったということで退院しました。 |
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ところが岩手・・・?主催とか『皿』とかの機関紙を編集したり、詩劇の主役を演じたりし、ずいぶん無理をして調子が悪くなった。 |
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また仙台に入院したのです。 |
岡澤 |
厚生病院時代の作品は非常に円熟しましたね。 |
高橋 |
そうです。この頃の作品は詩の上からいえばもう最後というか、結果的には晩年の作品ということになりますね。 |
岡澤 |
拾っていくと、この時代の作品が非常に「いいなあ」という感じがします。代表的な作品はこの時代のものですね。 |
高橋 |
『雁』とかなんかを除いた他は、ほとんどそうです。 |
岡澤 |
『雁の声』はその後ですね。 |
高橋 |
『雁の』はその後ですか。 |
岡澤 |
年譜をみれば分かります。ちょうどこの頃のは『好鶴』、『すずめ』、『熱帯魚』、それから『鴉』、『あざらしのいる海』、『じゅうしまつ』 |
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『黒いこおろぎ』、『五月は私の時』などです。 |
高橋 |
『五月は私の時』これです。これは本当に絶唱ですね。 |
岡澤 |
『秋田街道』、『死とプロディ』、『樫の木』。こういったのは皆この時代の作品です。 |
高橋 |
これは清書したのですね。メモを整理して。 |
岡澤 |
おそらく、深刻な時代で、もう「死」を予感し、意識したと思います。それだけに、ひしひしと「死」と向かい合って暮らしたし、それと同時に今 |
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までに書いたものを「甘っちょろい、もっと違うんだjと整理していたと思うのです。 |
宮 |
それでは川村医院さんに入ってから、・・・・のかしら。 |
高橋 |
そうです。 |
宮 |
村上さんがそこにいる時も、だれか親しくなった女の子に人形を作ってあげました。仙台の厚生病院こ持って行ったのですよ。 |
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そういうこともありました。親しくなった「女の子」でしょう。たぷん。 |
岡澤 |
なるほど。それはいつ頃ですか。 |
宮 |
仙台の時です。その前にも、川村さんというお医者さんのところでも、「1つあげたい」と言うので、あげたことがあります。 |
岡澤 |
それは宮さんが作ったのですか? |
宮 |
そうです。 |
岡澤 |
プレゼントするのに作ってもらって、これはいいですね。 |
|
恋人に作ってもらって(笑い)。 |
宮 |
いいじゃないですか。 |
高橋 |
昭和30、31年頃ですね。 |
宮 |
そんなもんでしよう。 |
岡澤 |
人形ですね。どんな人形を作ったのですか。 |
宮 |
私独特の、耳を長くした「うさぎ人形」というので、真っ白いのを着て、ちょっとこんなふうに座った格好をしていたのです。それが気に |
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入って、同じ物を作ってほしいと言われました。 |
岡澤 |
もっとも、彼は1月生まれだけれども、干支からするとうさぎですから。その年の干支はうさぎでした。詩などにも出てきますね、 |
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月の兎とか野の兎とかで…うさぎにひかれるものがあったのではないでしょうか。 |
宮 |
真白なので、「雪ん子」と名付けました。足が長い人形でした。それから、さっき花巻へ行った時、実は大村タカコさんに約束して行った |
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のです。泊まったのです。あそこ、何と言ったでしょうか。高橋さんご存じですか。 |
高橋 |
南3丁目と言ったのでは。 |
宮 |
今はそうですが。そうではなくて、家、実家です。鍛冶町だったでしょうか…。あそこにあまり大きくないお寺があって、大村さんとこはそ |
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こなんです。2階こ泊まって、私が真ん中で、両側に昭夫さんと大村さんが寝ました。夜遅くまで寝ながら話しました。 |
高橋 |
その家は分かってます。道路っぱたの家ですね。 |
宮 |
帰りにギンドロをいじったりして帰りました。 |
岡澤 |
昭夫君の家から200メートルぐらいの近くに宮さんがいらして、なにかと寂しい時には行けてよかったですね。もちろん大坪さんところにも |
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しょゅう出入りはしたでしょうが。あそこはなにし闘いの場ですからね… |
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‥‥(笑い)恐らくそうでしょう(笑い)。 |
高橋 |
そうですね。中村シュンスケもいましたからね…・。 |
岡澤 |
ライバルがいるし、お互いに・・・・仲間がいるし、どうしても心がやすまると時がなかったのかもしれません。 |
宮 |
昭夫さんの斜め向いにいらした阿部さんが仙台に転勤する時、家で送別会をしたのです。阿部さんの2人の子供さんもいれて。 |
|
その時はとても元気でした。昭夫さんは嬉しくなって歌をうたったり「しし踊りをしました。」 |
岡澤 |
さんさ踊りはものにならなかったと書いてありますが、「しし踊り」は上手なんですか。 |
宮 |
本当にうまくたたいて、飛んだり跳ねたりして。疲れないかと思うほどずいぶん踊ったのです。直るのではないかと思ったほど、 |
|
元気でした。太鼓を叩く真似をして腰を曲げて踊ったのです。 |
岡澤 |
あー、そうでしたか。あれは跳ねますからね。いろいろなお付き合いをした中で、満州時代の話をしませんでしたか。 |
高橋 |
満州時代の話は詩に書いてあるようなことですね「毛沢東が物を取るな」と言ったとか、「与えることがあっても取つては駄目だ。」 |
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という詩を書いていますね。そういう話はしました。 |
岡澤 |
つらい話はしませんでしたか。 |
高橋 |
つらい話はあまりしませんでした。ただ、食べ物がなくでどうのこうのとは言っていました。あまり触れたがらなかったと思います。 |
|
良く知らないのでこちらも聞きませんでした。 |
岡澤 |
宮さんはどうでしたか。やはりしませんでしたか。 |
|
そうです。しませんでした。その頃お母さんは、大げさに「私のところに毎日行っていた」と言ったそうですが。3、4日に一遍ですよ。 |
宮 |
達夫さんが「家の母が・・・を聞いて・・・・」とかおもしろいことを言っていました。全くトンチンカンで笑ったことがあります。 |
岡澤 |
実は、年譜の中に「徴収されてシベリアに抑留」とありますが、これはどうも嘘らしいのです。 |
高橋 |
行った所も、別のは直してあるのですが、ハシモトタダシさんに言われて、ハルビン省とかはないのですっかり直したそうです。 |
岡澤 |
そうそう、ヒンコウ省でしょうね。このことは、向こうに行った同級生というか、仲間をゲストに呼んでお聞きしましたら、彼は昭和2年の1月 |
|
なんです。その前年の大正の末期まで、いわゆる昭和元年までは大正なんです。ですから昭和2年から対象で、私は同級生でだれも引っ |
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張られるごとはないのです。村上昭夫だけが引っ張られるというのは考えられません。 |
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もうーつは飛行機工場に、官吏動員の挺身隊で行って、解散するまで一緒こいたのですから。そして民間の連中は昔、無事に帰ったの |
|
です。軍人だけ残って後始末をやったのです。いろんな資料を焼いたりするためです。それは、ソ連が参戦してどんどん進行している最中 |
|
ですから。はっきり言って、もう解散ですからその時は役所が軍隊を召集する機能なんてないわけです。 |
|
その最中に応召を受けるということは考えられません。 |
宮 |
れでは、だれからそれを聞いたのですか。 |
岡澤 |
そうなんです。私はどういう経過でこの年譜になっているのか、疑問なのです。 |
高橋 |
はっきり聞かないといけませんね。 |
岡澤 |
ただ、2回目の座談会の時に達夫さんからのお話では「ロシア兵に捕まったという話なのです」と。どうして捕まったのかと聞きますと、 |
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戦争が終わってから向こうの方で武器などを持ってはいけないといういことは分かっていたのですが、自分が住んでいる所からピストルか |
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何かが見つかったという容疑だったようです。それで捕まえられ、連れて行かれて、かなりひどい折檻を受けたという話しをしていました。 |
|
捕られて、コンクリートの床の上に転がされているので、小便も垂れ流しという状態でした。そうすると流れてくるのでこそのへんのごみの |
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ようなもので垣根を作ってせき止めたという話をしていました。こういうのが抑留説になっていて・…。3カ月くらい抑留を受けた。 |
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つまりあの当時、もとの任地に戻ったんだけれどもごたごたしていて、要するに、日本人の仲間たちがいる所にロシア兵が来て、 |
|
調ぺたら武器が出てきた。それで皆収容されたということなのです。それはシぺリヤではなくて、現地でです。 |
|
ですから、そのへんの話が、現地召集、シベリヤ抑留、、3か月で帰って来たといわれています。それも甚だしいのは、汽車から逃げ出して |
|
きたということを書いている人もいますが、ハシモトさんに言わせると、絶対にそんなことはありえない。自分は帰れなくて行ったわけだ |
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から。そんなのんきなものではないですよ。行った者が3カ月で帰れるような状態ではありませんよ。 |
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抑留者の話を聞いてみると、この説はどこからか何かの経緯で、間違ってしまったのではないかという気がします。 |
|
恐らく私は間違いだと思います。 |
宮 |
それはそうですね。 |
岡澤 |
3カ月説は、たまたま新彊に皆集まるわけですが、満州で吉林省にいた連中も安全だという場合に、集まるわけです。 |
|
日本人がいっぱいいて良いということで。それで、ハルビンの方からも昭夫が来るのです。大体、12月頃ばったり同級生が会っているわけ |
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です。すると8月頃飛行場を解散して、11月頃会っているということは大体3カ月になりますね。その間にそういう容疑で、グループの中の |
|
だれかが、ピストルを持っていたので捕まえられたというのはあったと思います。その後逃げたか無事に解放されたかで、新彊まできたと |
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いうのが11月だと思います。その後、なにかタバコやせっけんみたいなものを、どこからか仕入れてきて売っていたということです。 |
|
食べるためにそうして稼いでいたようです。それもまた、向こうの官憲が取り締まるわけです。ですから売る場所を絶えず移動しながら |
|
やったそうです。というのは、そういう人を引っ張って行っては強制労働をさせたのです。以前は現地の満州人を引ってきて無料で |
|
働かせて、強制労働を日本がやったのです。今度は逆に日本がやられる番で、そっちこっちを逃げ回ったそうです。そういう詳しい話を |
|
同級生の仲間から聞かされました。 |
高橋 |
私たちの周りではあまり分からないことですね。しかし向こうではずいぶん親切にされたという話は聞いたことがあります。 |
岡澤 |
いろいろ皆バラバラです。良い所に行った人もいます。今、川嶋印刷こいるヤマウチという人をご存じですか。 |
高橋 |
いや知りません。 |
岡澤 |
アレも同級生で、いろんな事をやったそうです。波瀾万丈の1年間だったそうです。もう1人のフルダテという人は昔の日本人の上司、 |
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…・と暮らして、闇ルートがあってぬくぬくと暮らしたようです。ですからまちまちなんです。おそらく昭夫君は、要領が良い方ではない |
|
ので、賭博をやったり、せっけん売りをやったり、どこかの使いっ走りをやったと思うのです。 |
|
年譜の中で、ここの部分が疑問です。というのはここを皆引用しているのです。例えば、これもそうですね。 |
高橋 |
うですね。いつか聞いたことはありますが。彼はどのようにしたのでしょうか。私は、この詩集ができてすぐ「それは違っていますよ」 |
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とハシモトさんから指摘されました。ただ、昭夫君は中国や向こうのことを悪くは言いませんでした。赤旗を見せてくれた時もすごく好意的 |
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でしたし、中国人は親切で、こうだああだと言って、悪い印象は残ってはいません。つらさなどはありませんでした。あるいはそういうことで |
|
目覚めたのかも知れまんが。これ以上は思い出せません。 |
宮 |
私も哀れなことは聞いておりません。それで、帰ってきた時のことは聞いていますか。 |
高橋 |
あまり聞いていません。 |
宮 |
母さんがちょうどご飯を食べている時で、ヌウーとそばに立っているので、「亡霊かと思った」と言っていました。 |
|
それでびっくりしたそうです |
高橋 |
苦労してきたのでしょうが、あまりむこうの人のことを悪くは言いませんでした。 |
宮 |
私も聞いたことはありません。 |
岡澤 |
それで達夫氏の話の中で、家で満州時代の話をさまざま聞かしてくれました。いろんな仕事をやったと言っていました。 |
|
一つ覚えているのは、当時、戦争で砂糖が無く、甘い物に飢えていたので、砂糖大根から砂糖を作ったんだと言っていたのです。 |
|
というのがあります。満州時代に砂糖を作ったことがあるわけですね。 |
松見 |
「ビート糖」ですね。 |
岡澤 |
そうです。達夫さんが「だれかが、砂糖大根を手に入れて、それを兄が刻んで、鍋で煮て、煮詰めて何か作ったらしいです。」 |
|
と言っていました。ですから満州持代にこういったことを覚えてきたということなのです。その他はここでは話題がありませんでした。 |
|
いくらかは具体的には兄弟に話しているようですね。 |
|
畑を借りていて、、毎朝そこに耕しに行った。そこへ行く途中にリンゴが一つだけ落ちていた。それが二、三日続いたのです。それで不思議 |
|
だなあ……。と思っていたら兄が帰ってきたのです。」ということです。 |
高橋 |
そういう現象があったのですね。良いお話しですね。 |
岡澤 |
「三日目の朝だったと思います。三日目に帰って来たのですよ。さすがに私も本当にうれしかったのです。」と言っていました。 |
|
「どんな身なですか?」と間いたら、「本当に、ポロという感じで、カーキ色の服にリュックはかなり古びていて、中に何を入れていたので |
|
しょうか。今覚えているのは、これもお土産になるのでしょうか。フェルトの靴が一つありました。兄は満州の北の方にいたものですから. |
|
それから布の財布があって、満州時代の小銭が入っていました。今も大事に持っています。それが兄弟たちへのおみやげといえばおみ |
|
やげずで、記念品だったのかもしれません。帰ってきて親が本当に喜びました。母親はどうか分かりませんが、父親は完全に死んだ |
|
ものと思っていましたから。仏壇に陰膳をしていました。」と言っています。 |
松見 |
その時に帰って来た家はこの家ではないのですか。 |
宮 |
違います。その家は青山のお風呂を作った家ですね。 |
高橋 |
青山のカンザキさんですか。 |
宮 |
もちろんです。 |
松見 |
前は、加賀野の長屋の所に住んでいたのですが。 |
高橋 |
あそこは東北電力のアパートなんですか。 |
岡澤 |
違います。個人の住宅を借りたということです。 |
松見 |
熊谷さんの長屋にすんでいたのですね。 |
宮 |
長屋ではなかったですが。 |
松見 |
その次に天神町の一軒屋に引っ越ししたのです。 |
宮 |
そうです。あそこは天神町というのでしょうか。境目ですから分かりにくいですね。 |
岡澤 |
そういうことを達夫さんの話から収録しました。 |
高橋 |
家ではそういう話だったのですね。私たちの周りや大坪さんも、その話はあまり聞いてはいないと思います。 |
宮 |
そうです。あまり話しませんでした。 |
岡澤 |
私たちも同級生とか、検証として、弟さんの話しを聞けば、どうもここはいちばん「問題だなあ」と思います。 |
|
もう少し、整理する必要があると思います。 |
高橋 |
はっきり言って、行き先なども分かるのですか、何省とか。 |
岡澤 |
分かります。これは前の第2回目の座談会の記録に出ています。 |
高橋 |
もしも分からなかったら、大坪さんに聞いたので別なものに控えていますから。 |
松見 |
同級生だけにも集まってもらったことがあります。 |
高橋 |
それがいちばん正確なわけですね。 |
岡澤 |
ただ皆それぞれ、ばらばらな所に勤めているのです。 |
松見 |
だから、しょっちゆう会うわけには行かないのです。 |
岡澤 |
れで、現地にいた朝鮮人の上司のことを詩の中では書いているでしまう。 |
高橋 |
『リ・チンウ』だったでしょうか。 |
岡澤 |
朝鮮人はこんなに立派な人がいるのに、おまえは馬鹿だと書いていましたね。 |
高橋 |
ああいうのは本当なのでしょうか。 |
岡澤 |
本当でしょうね。満州時代はとにかく朝鮮人というのは、日本の官吏からは冷遇されていたけれども、朝鮮人自身は日本人に対してものす |
|
ごく親切であった。水ごりをするにしても、おまえたちだけやるんじゃないと、自分も水をかぶって励ましてくれたということです。民族の |
|
いろいろな中で、本当のものが満州時代に敗戦になって浮かび上がったのではないですか。今までこけおどしに威張っていたのが変な |
|
具合になるし、今までいじめられた中ではいじめ返す者もいますが、逆に親切に昔を忘れてやってくれるものもいる。 |
|
私は、昭夫が文学に目覚めた原点というめは、この満州の悲惨な難民時代に芽生えたのではないかなあ……と思うのです |
|
そのモチーフはいろいろな形で詩の中に出てきているのです。ですから、満州時代に何か小説を書いたということですが。 |
|
だれか聞いているのでしょうか。 |
高橋 |
全逓のなにかで発表したと聞いております。 |
岡澤 |
そうですか。それを見ればいいですね。もしかして、その中に捕虜になった話でも書いているのかもしれません。 |
|
それが伝説になってしまったということでしょう。その全逓の原稿を手にいれたいものです。 |
高橋 |
組合誌かなにかであればいいのですが。 |
岡澤 |
これも「書いた」ということだけで、まほろしの小説なのです。やはり明らかにしないと。いったいどんなものを書いたかも分からないし。 |
宮 |
そうですねを |
松見 |
全逓の幹部に聞いてみなくてはなりませんね。 |
岡澤 |
おそらく、バックナンバーもどこかにあると思います。もしそういうルートがありましたら、お願いします。 |
高橋 |
はい、聞いてみます。 |
岡澤 |
コピーしてほしいです。 |
宮 |
五味川純平の「…小説」を読みましたが、実にものすごいことが書いてあるのでびっくりしてうちの人に話したら、 |
|
「小説だよjと言われました。けれど、まるっきりしないものは書くはずもないと思います。 |
岡澤 |
やはり資料を全部集めて書きます。ただフィクションにいろんなのをつなぎ合わせますから多少は問題がありますが。 |
|
データはその時代の、いわゆる「ノンフすクシヨンの脱出記録」などを、そうとう使っていると思います。 |
宮 |
それで天皇なんてめちゃくちゃに書いてあるのです。言論の自由かもしれませんが、実に驚くほど、書いてありましたら |
|
読んだばかりですが。 |
岡澤 |
私も昭夫君の背景を訪ねようと思って、県立国書館にある、満州時代の引上げの混乱期の資料を漁って読んでみたりしましたが、 |
|
すごいですね。あの時代に、あそこで真面目な青年が1年、心細く過ごしたわけてすから。その時の親切は一生忘れられないでしょう。 |
|
それが、最後は胸にくるということもあるでしょう。 |
高橋 |
その頃は八路軍というのですが、その親切さがだいぶ胸に感じられたということです。 |
宮 |
そうですね。 |
高橋 |
そういう意味で、印象とすれば、向こうの人は好意的だったようです。自分が逆に救われた体験もあったのでしょう。 |
岡澤 |
そういうことです。この件(満州の喜怒哀楽の情報)については、詩人の皆さんには話していないのですね。家族にはちょっと漏らしては |
|
いたようですが。 |
高橋 |
私たちの話題はどうしても詩の話の方にいきますからね。 |
岡澤 |
生活ではない方にね。 |
高橋 |
病気の話では、皆に書かないようななことも、私の手紙などにはずいぶん書いてありましたが。 |
岡澤 |
皆に書かないような話というのは、どんな話なのでしょうか。 、 |
高橋 |
要するに、病気の話で痰(スプーターといいますが)を出して病原菌を調べるということです。 |
|
ここに良い手紙があります。「調子がどうも良くない。スプーター(痰)が切れない。それがどんなスプーターか、どこから出てくるのか |
|
恐ろしいほど良く分かります」と書いてあります。ですから、たぷん手術をしなかった方にも空洞があって、そこから痰が出てきているのを |
|
本人は分かっていると思いました。「でも、そんなことを人に話したとて弱い同情を受けて、せいぜい笑われるだけですから. |
|
誰にも話しません。自分で耐えるより他ありません。ただその忍辱の場が私の言葉の最大のエネルギーであったことをいずれはだれ |
|
かが知るでしょうけど。まずは『動物哀歌』を歌う、こと」とあります。 |
松見 |
サナトリムにいた時に、川村さんといいましたか。 |
高橋 |
川村キヨシきんですか。 |
松見 |
そうです。 |
高橋 |
あの人が副院長で、主治医でした。それで退院した後も川村医院にかかっていました。私も腎臓がちょっと調子の悪い時、北上から出て |
|
来て診てもらったことがあります。 |
松見 |
あの人からも何か聞けば分かるでしょうか。 |
高橋 |
それで・・・・・。 |
松見 |
私は小学校が一緒なのです。風邪を引いたりすると来てもらってます。 |
岡澤 |
それでは病状のことなどは詳しく分かっているでしょうね。 |
松見 |
いつか聞いてみた方がいいですね。今は息子に譲っておやじさんは隠居しましたが、1週間に3日間は出るようです。 |
宮 |
川村さんはクリスチャンではなかったですね。 |
松見 |
クリスチャンではないです。 |
高橋 |
血尿が出たりするとか、そんなことばかり書いてきていました。このことは詩の人にはあまり書かなかったと思います。 |
|
今思い出したのですが、全逓の文化活動をしていた頃、サークルでNHKの放送に立ち合ったこともあったそうです。その時、 |
|
今で言えばディレクターに大変ほめられたという話です。なぜほめられたかというと、上手、下手ではなくて、時間がぴったり終わった |
|
ということで、ほめられたんだと笑っていました。15分か20分の放送だったそうです。 |
松見 |
それに似た話しをタカハシカツヒコ君から聞いたことがありますね。ほめられたいうんでしょうね。実際は作品が良いということではなく |
|
かったのですが(笑い) |
岡澤 |
放送のことですね。(笑い) |
宮 |
詩人クラブで詩祭をやった時に「黒のタンタラス」というのをしましたね。 |
高橋 |
「黒のタンタラス」というのを私たち北上と花巻のグループがやって、あの人は「馬を主題とするファンタジー」の主役をやったのです。 |
岡澤 |
どういうことをやったのですか。 |
高橋 |
藤井逸郎さん、吉田慶治さん、大坪孝二さんの3人でシナリオを書いたのです。それが3つあって、彼は主役でちゃんと演劇をして |
|
いました。あれでかなり無理したのではないかと思います。実際、セリフをしゃべったりしましたから。かなり打ち込んだと思います。 |
|
文牝活動をやったし、病気も直ったというのでまたのめり込んでいったのです。そのへんの記録は「皿」などに残っていると思います¢ |
|
もの凄く張り切ってやっていました。 |
岡澤 |
当日まですごいNGばかりだと聞きましたが、本番になったらうまくなったということです(笑い〉 |
高橋 |
あれは教育会館でしたかね。今でも目に見えるようです。今では大したことなくても、あの頃は結構盛り上がっていましたよ(集い)。 |
岡澤 |
本当に詩人の人たち・・・。 |
高橋 |
この頃は大宮さんや、村上さんが…長やったり、盛岡の人たちは大したものでした。ですから、社会的使命などには真面目に働く人 |
|
ではないでしょうか。健康で組合活動をやっていれば、文化活動などで粉骨砕身、働く人だったと思います。 |
岡澤 |
やはり、敗戦まではコチコチとはいいませんが、軍国少年だったと思います。要するに、あの時代は私も含めて皆、 |
|
軍国少年だったのですが。 |
宮 |
そういうことです。 |
高橋 |
そうです。私の世代で、私が旧制中学1年で終戦ですからよく分かります。 |
岡澤 |
なるほど、それじゃいよいよ軍国少年になるわけですね。とにかく明日は兵隊に引っ張られる年齢なわけですよ。 |
|
それに当時の学校の教頭さんは、人の顔を見れば「すぐ兵隊に行け!志願しろ!」と勧めるくらい徹底していましたから。 |
|
皆コチコチになるわけです。 |
松見 |
牟岐さんですか。満州へ行ったのも学徒動員の会社の寮に行って、そして満州からこういう要語がきているが、おまえたちの中で行か |
|
ないかと言って勧められて行くことになった。ということですが。 |
岡澤 |
そうです。イチノヘ君もそうでした。 |
松見 |
イチノヘ君がそう言っていました。 |
岡澤 |
エピソードが1つあります。ちょうど官吏挺身隊で、飛行機工場に集められて、そこで合宿生活をさせられます。ちょうど上下でカイコの |
|
寝床みたいになっていて、夜は話をして暮らすわけです。たまたま原爆が広島に落ちたという話が話題になって、皆は『これだと、日本も |
|
危ないんじゃあないか」という話しにまでいったのだそうです。そうしたら、村上さんが、こういう時こそ、しっかりと我々が頑張らなくてはい |
|
けないのに、そういう話をする人は非国民だ」と怒ったそうです(笑い) |
高橋 |
彼はそういうところがありました。分かるような気がします。 |
岡澤 |
やはり軍国少年だったのですね。ですからそこまで教育されて行った者が、敗戦と同時にすっかり変わったでしょう。今までで、きれいごとを |
|
言っていたのがすっかり腐敗の底に沈んでしまって悪いことばかりやるもんだから、そういったものがすっかり滅入ってきて、日本人、 |
|
朝鮮人、満州人とかではなくて、本当の人間を…‥したと思うのです。ですから引き上げるまでの1年間は衝撃を与えたのではないで |
|
しょうか。 |
高橋 |
この頃はもう発病していたのでしょうか。 |
岡澤 |
そこいらへんはどうなんでしょうか。 |
高橋 |
やはり勤めてからでしょうか。悪くなればぐんぐん悪くなりますからね。 |
岡澤 |
実は、昭和2年生まれで小岩井農場の観光部長だったキクチさんが、盛商の5年の時に、やはり満州に渡ったのです。この方が1昨年 |
|
亡くなりましたが、現役の最中にある日突然病気になるのです。これは満州時代の後遺症というのが意外と長く潜伏していて、後から |
|
出るようです。ハシモトさんも疲れたりして体調が時々くずれたり、しびれたりする後遺症があるようです。実はヤマウチ君もあまり良く |
|
ないのです。そういう要素があるようです。それが早くでる人、ゆっり出る人、最後まで出ない人があるでしょうが。 |
高橋 |
中学校時代は静かな人だったのでしょうか。第一印象はやはり静かな人でしたが。 |
岡澤 |
そうです。おとなしくて、にこにこした昭夫フェイスがありましたね。写真に移っているのも穏やかです。 |
宮 |
そうですね。 |
足沢 |
人と一緒にいるのが好きなんです。自分からはあまり話さない人で、写真に写るめが好きでした。 |
高橋 |
確かに皆がいる所には行きますね。構えないで、結構皆と溶け込みながら、しかも自分をしっかり持っている人でしたこ。詩人クラブなど |
|
では、皆はワイワイやっていましたが、あの人の印象は静かでしたよ。生まれつきなのでしょう。 |
岡澤 |
部活では、剣道部に入ってやってましたが、その中でも存在感はあまりありませんでした。そういう性分はあったとは思いますが、 |
|
結局、それだけ詩人として踊りり上がった時には同級生はびっくりしたわけです。 |
高橋 |
そういえば、耐えている時に、口笛のように「フウー」と吹く癖がありました。手術をした時も、耐えているというか、格好をつけているというか、 |
|
耐え忍ぶというか、それこそ、忍辱ではないですが、口笛を吹いていました。いわゆる「ウソ笛」というのでしょうか、から笛というのでしょう |
|
か。 |
宮 |
ハミングみたいでしたね。 |
高橋 |
そうですね。「フウー」とハミング的ですね。そして目は遠くを見ているのです。この癖は昔からあったのでしょうか。 |
宮 |
いや、話しの合間にもそうでしたよ。 |
高橋 |
私が覚えている限りでは、辛いところにくるとそうでした。手術場に行く時、これから治療する時、気腹(昔はヤボなことをやったもので、 |
|
針を腹に刺して、空気を入れて横隔膜を固定すると)いうか要するに肺を膨らますのです。気胸といってろく膜からもやつたのですが、 |
|
癒着していてできなかったのでが、それをする時などでした。大坪さんのところでもみんなにたたかれたときには、ハミングらしいものをし |
|
ていました。癖だったのでしょうね。バイブレーションを発していたのかもしれません(笑い)。 |
|
そしてある日突然覚めたのです。一番最初に…・なのは『荒れ野のポプラ』といって芸術賞に入ったのですね。 |
|
あれには村上昭夫はこれで才能が目覚めたと書いてありました。がらっと変わりました。。 |
岡澤 |
うーん。おそらく彼の最初のノートを見たときから比べれば、その後の彼の変わりようは大変なものでした。 |
高橋 |
がらっと変わりましたね。草野心平が最初に日報の選をした時に、ドレミのなんとかという、ドレミフアソラシドのことについて書いたことが |
|
りますが、その時から彼のスタイルは決まってしまってほとんど変わりませんでした。すごいなあと思いました。病気ではないですが、 |
|
才能が潜伏していて、ある日突然目覚めたという感じですね。 |
岡澤 |
この年諸を見ますと、宮さんが詩集の出版については何度も足を運んで、最後にはお父さんに「やろう」承諾させたことになって |
|
いますが。どうなんでしょうか。 |
宮 |
親にも負担がかかりますからね。私が「責任を持ちます。大丈夫、売れますから」と言いました。それでやっと「うん」と言ってくれたので、 |
|
大坪さんと一緒に出むいたのです。 |
岡澤 |
結局あの頃になると詩作もなくなったのでしょう。 |
宮 |
そうですね。もうおしまいの方ですから。 |
高橋 |
ほとんど原稿はできていて、清書し直していたのではないでしょうか。ノートから原稿紙に写して、更にもうーつの物に写し直すといった |
|
ことです。ですから私の所に来たときには2種類の原稿がきました。それで、はっきりしている方を選んで使ったのです。 |
宮 |
初めは300部出したのですか。 |
高橋 |
初めは200部です。 |
宮 |
私がお父さんに「足りないですよ」と言ったのですが、「いいんだ宮さん、いいんだ宮さん」と言ってそれくらいにしたのですが、 |
|
すぐなくなったのです。家の人たちも10何部かは買ってくれました。 |
岡澤 |
結局、「晩翠賞」を取ったり詩集を出したりしないと、対象にしてくれないということでしょうね。ですから死ぬ前に賞を取らせなければ |
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(出そうと思って清書はしていたでしょうが)、自分で言いそびれて皆から勧められても、「いや・・・・、いや…・、親に負担をかけるから」 |
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と断っていたのですね。それを宮さんが、再三彼の自宅に行って説得してお父様が遂に「そんなに言うならいいじゃあないか」とおれて、 |
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お父さんが良いからということで承諾したのですね。大坪さんと宮さんに原稿を渡したのですね。 |
高橋 |
私は行きませんでした。段ボールに原稿だけどっと届いたのです。 |
岡澤 |
それから選択したのですね。 |
高橋 |
そうです。なにもなかったのです。どういうふうにならべるかも「おまえがやれ」てなもんで、結構テーマごとにならべたり、ちょっと順序には |
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問題あるとは思いますが。今思えば、ぜいたくな時間だったと思います。全部読んで、区分けをするのを会社でやれたのですから。 |
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今の企業では考らちれません。 |
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私も村上昭夫さんが亡くなるとは思いませんでした。村上昭夫さんのお父さんも怖い人でした。私が図々しく泊まりに行った時でも |
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分かりましが、彼はなんとなく遠慮しているのですね、家でも。私はそんな怖い人だと思わなかったので、泊まるつもりで行ったのに、 |
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つい断ったりしました。ですから、詩集を出す時も反対して、「馬鹿もの」みたいなところがあったのでね。最後に賞を取ったりしたので、 |
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それではということで認めたというところがありますね。恥ずかしいやら遠慮しているのはあったと思います。 |
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それから、このことは是非言っておきたいのですが、私は文章には書いたことはないのですが、この時、大坪孝二は本当に良い仕事を |
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しました。実はこの『動物哀歌』に入っているところは50ページぐらいカットになっているのです。最初は初期の原稿が全部きたのです。 |
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私が作った時にはこの他にもう1っパート1、があったのです。私は杜陵印刷にいましたが、校正もでて、初稿もでて、再稿ぐらいでた頃だ |
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と思います。そしたら大坪孝二がある日、「これは少し割愛した方がいいのではないか。割愛すべきだ」と言ったのです。 |
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私も、そういえばそうかもしれないと思ったのです。ところが印刷会社とすれば、せっかく組んで割愛されるのは困るのです。それでは |
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村野さんと相談してみようということになったのです。それで大坪さんが村野さんに手紙を書いて聞いたところ、「これは割愛しても良いと |
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思います」返事がきたので、割愛したのです。ですから、大坪孝二は他の事は何もしませんでしたが (これは冗談ですが) (笑い)、 |
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この「50ページをカットした方が良い」という先見の目と、それをした勇気は生涯の内でも、画期的な仕事ではないでしょうか(笑い)。 |
岡澤 |
何編ぐらいの詩なんですか? |
高橋 |
全部、初稿は村上昭夫詩であります。ページとしては50ありました。とにかく幼い頃の詩です。結局村野さんも喜んでくれたし、 |
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その後、歌人のサトウミウマサだったでしょうか「玄地襲末の叙情』に本格的な「村上昭夫論」を書いたのです。彼が私の家にきた時に |
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rそのノートを、割愛したページを見たいjと言うので、見せたのです。後から手紙がきて、「あれは割愛してよかったと思います。 |
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でないと今の 『動物哀歌』の評価はなかったかもしれないJと言っていました。 |
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私が一つ後悔しているのは、『男と女の部屋』までカットしたということです。何かある時はそれを入れたいと思ってます。 |
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タイトルは忘れましたがイッペン そのへんは・‥‥ 村上昭夫さんはね。「本当に削るのか?」と何回も言ってくるのです |
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でも「これは削ると決めたので、削るのだよ」と言ったら、彼も、渋々「最後にラリックス物語だけでも入れてくれないか」という |
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ことだったのです。それも切ったのです。大坪孝二はその時は本当に偉かったのです。良いことをしました。 |
岡澤 |
その・・・・・・というのはどういうことでしょう。 |
高橋 |
皆入れてもらっているのです。入れてもらいたいけれども、せめて、それだけでも入れてくれないか。ということなのでした。 |
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あと一編のことは彼は忘れていました。後からこれがあったということに気がついたようです。 |
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わりと長くてラリックスは……と始まり、メルヘン風な詩なのです。確か『歴程』の追悼号には出させてもらいました。 |
岡澤 |
これですね。 |
高橋 |
他の物も本人とすれば、全部入れたいという …だったのです。 |
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50編だと思っていました.今も校正をでてそのまま判がついて、出稿というのが出て削ったのですね。これは大坪孝二がいなければ、 |
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結局出てきて駄目たったのだと思います。もし入っていれば、他の良さも曲げてしまっていましたね。 |
宮 |
これは原稿を貰いに行った時、写した写真です。 |
岡澤 |
これですか、それを書いておかなければいけませんね。 |
高橋 |
記念写真ですね。 |
宮 |
その後も、青山町から家までよく遊びに来たのですよ。 |
岡澤 |
そうなんですか。 |
宮 |
よくきました。昨日は転んだと言って膝をまくってみせるのです。すると内出血していました。 |
高橋 |
バランス感覚を失ったのではないでしょうか。自転車で転んだり、あの時から風呂場で転んだりするなんて、ちょっとおかしかったですね。 |
岡澤 |
このへんになるとかなり悲惨な感じがします。 |
宮 |
でも健康そうですね。 |
岡澤 |
写真よりも、本物の方が健康でしたか。 |
宮 |
私から言えばこっちの方が健康そうです。 |
高橋 |
それから村野四郎さんがお見舞いしたことがあるのですが、詩集の中にも写真を一緒に撮ったのがありますが、村野四郎さんが…・ |
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☆ ここでテープが中断 ☆ |
宮 |
いいえ、サナトリウムがいいんじゃあないかなあとでましたが。岩山で『リス』の詩がすごくいいなあと考えていました。 |
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ワイワイやっていたら小森さんが「たとえば、ここだって良いんだよ」あっそうかとなったのです。本当に偶然でした。 |
高橋 |
サナトリウムは医科大学の土地で、結局駄目だったのですね。 |
宮 |
それと場所的にあまり遠いので、結局建ったのは市立国書舘です。各代表を記念して集まっているわけです。 |
岡澤 |
なかなかいきさつもおもしろかったですね。 |
宮 |
びっくりしたのです。小森さんが言った時には。なるほど今まで、考えなかったことでしたので。 |
高橋 |
そしてオーブンの時、村上昭夫展をあそこでやったのですね。その時この写真も出ていました。 |
岡澤 |
またこれからも、ゆっくり見せてください。 |
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終わり |
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追加 宮さんの「村上昭夫の詩碑」について |
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大坪さんが、私が村上昭夫さんの詩碑を建てたいと言ったら、「おれは動かないけれども、お金をだすよ」と言ってくれたのです。 |
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それで「いいですよ。私が動きますから」と言いました。それで私が動いて仲間の内川さんや岩泉さんも手伝ってくれて、石屋まで |
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頼んで、決まり、建てるだんになったら、大塚さんが「ちょっと早いのでは」と言い出したのです。それで困ってしまい、沢野さんに相談した |
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のです。沢野さんは私たちの詩の仲間で私とはたいへん親しくしていました。村上昭夫とは会ったこともないのですが、村上昭夫さんの詩 |
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をたいへん好きで、「私が全部出しますから、宮さんと私の名前を掘りましょう」と言ってくれたのです。 |
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それがまた問題になりまして、それでは「私はしません」と言いました。「私の名前を出したくてやった」と言った人があるでしょうから。 |
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これでいろいろ話して沢野さんも納得して、「動くのは私が動きますから」と言ってこちらで一生懸命やったのです。 |
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その石屋さんなども、ある人から上田の良い人を紹介されて、少し安くしてもらって決めたのです。さあできました。 |
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それをどこに置くか」となったのです。私は始め『リス』の詩がいいなあと思っていたので、岩山を考えていましたが、石を岩山に持って |
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いくのがたいへんで、詩も『深海魚』の詩になったし、いろいろ話をしていたのです。 そうこうしているうちに、市立図書館の館長の小森 |
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さんがここにも立てられますよ」ということになったのです。そういうことは考えもしませんでしたが「あっそうだ」と決まりました。 |
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お金も届き、すべてが整ったので、反対した人も除幕式には出席したし、いろんな方が出ました。 |
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喧嘩したわけではないですから。私はいいと思ったことはやってしまうので、どうも‥…・。本を見ればわかるのですが。 |
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詩人のイトウシンキチも東京からきました。村野四郎の奥さんと息子さんも来たのです。及川均さんも釆ました。 |
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その時沢野さんが来ないので、沢野さんの代行をすべて私がしました。 |
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記念樹は何にしようかということになり、村上昭夫は白木蓮が好きでしたので、それを植えることになり、私が土をちょっとかぶせる |
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まねをしました。 |
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花束をお母さんにあげたり、それから市に寄付をするので、市長の工藤さんも来ました。本当は私は陰の人なのです。 |
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村上昭夫さんの家でも20万円寄付してくれました。ですから200万円以上で建ったと思います。 |
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その後、あと始末もあって沢野さんに挨拶に行きました。あの時はずいぶん行ったり来りしていました。 |
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そういうわけで、大きい金額は沢野さんが出してくれたのです。 |
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いつも集まる時が桜が咲くときでしたので、その頃だったと思います。 |
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前にもお話ししましたが、村上昭夫さんの前に私が詩集を出して、足りなくなって増刷していたので、村上昭夫さんの『動物哀歌』も |
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あれではすぐ無くなると思っていました。それで終結したのでした。 |
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