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晩翠賞は、土井晩翠の教え子や仙台の文化人らが中心となって結成した「晩翠会」により、晩翠の顕彰と |
東北の詩人の活躍を願って1960(昭和35)年に創設されました。 |
晩翠会」の中心の一人が、仙台の郷土研究家・天江富弥でした。 |
学生時代には児童雑誌に作品を投稿したり、童謡雑誌を主宰したりするなど、多趣味な文化人として知られ |
た天江は仙台商業学校の後輩であった詩人・石川善助を介し、草野心平との交友を深めており、 |
「晩翠賞」はこの二人の絆から生まれました。 |
賞の制定にあたっては、対象を東北在住または出身者の詩作品に限り、選考委員は草野心平のほか |
伊藤信吾や村野四郎ら詩人を迎え、正賞は彫刻家の柳原義達が制作した、晩翠の肖像のレリーフとしました、 |
当初から子どもを対象とした「晩翠児童賞(現在は晩翠わかば賞・あおば賞)」も併設しました。初期の頃は |
、天江が有志から寄付を集めたり、私財を投じたりして諸経費をまかない、また自ら応募詩集をリュックに詰めて |
上京して、草野宅での選考会を行っていました。長く選考の中心にあった革野心平の日記には、晩翠賞の選考 |
についての記述が見られますが、選考が夜間におよんだ日もあったことや、選考委員とのやりとりの様子などが |
記されています。 |
このような選考会は、天江が高齢のため心平宅を訪れなくなった後も、1983(昭和58)年まで続きました。 |
1994(平成6年)からは対象を全国に広げながら回を重ねて、半世紀にわたって東北から詩壇への |
発信を続けました。 |
仙台文学館発行「晩翠賞の50年」より引用
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選 評 |
ここに収録された200編に近い作品に見られる |
人間的悲哀の造型は圧倒的であった。 |
これほど深くて透明度のたかい詩的破壊力は、 |
今年詩檀の収穫であるかも知れない。 |
晩翠賞によって、こうした詩人の発見されたことは |
よろこびである。 |
仙台文学館発行「晩翠賞の50年」より引用 |
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