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「わが人生のスタート体操競技」 五日市享児 昭和34年卒(11回生)
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高校和卒業して半世紀が過ぎた今、当時を懐かしく回想するも、思いの記憶も薄れか |
けています。
岩泉中学から編入学をして最初の高体連の大会に出場したのが1956年。当時の岩
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っていたものでした。 |
我々のチームは、体操を心底愛する2年生の佐々木好洋さん、1年生の戸塚安紀・ |
阿部光昭・大坪征一・五日市享児等の低学年メンバーでした。成績は下位。 |
県大会が終わってから練習方法が変わりました。昼休みの1時間は部室であん馬の |
練習に集中し、あん馬の基本である旋回運動に互いの競争心が芽生え、徐々に力がつい |
ていきました。放課後は、毎日8時半までの練習で月を背に帰路に就いたものでした。 |
日曜日も休むことなく長時間体育館にいたことが思い出されます。
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1957年私は、足沢先生宅に下宿することになり、体操部の顧問という立場で指導 |
を受けさらにクラス担任という先生の愛のむちを受けながら、私自身技術的に急成長し |
たのもこの時期だったように思います。 |
この年には、盛岡市民体・岩手県選手権大会にみんなが自信をもって試合に臨み、演 |
技することができるチームになっていました。結果、団体優勝と共に個人では私が優勝 |
しました。東北大会・インターハイ(秋田県)・国体(静岡県)に出場したのもこの年でした。 |
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3年生になった同期4人のチームワークも一段と増していきました。この年(1958 |
年)、盛岡市営体育館が落成し公認の体操器具が設置されました。 |
時には、午後の授業を早退して市営体育館で最高の器具を使用し、最高の環境で練習 |
ができたことが、強いチームになった一因であるように思われます。 |
この年の県大会の成績は、チーム・個人とも全て優勝という成績を,我が体操部は残 |
したのです。富山国体さらに長崎で開催されたインターハイも2年連続で出場するこ |
とができました。盛岡から2昼夜かけた列車移動の途中、山口県あたりで摂った朝食 |
で、私は腹痛を起こし、長崎に着いてから1度も練習することができなかった。そし |
てそのまま試合に臨んだ結果、予想もできないミスにより団体の予選通過は夢と消えた。 |
しかし、個人としてはあん馬を1位で通過したものの、得意とする跳馬でラインオー |
バー、1点の減点は大きかった。体力の調整不足を悔やんだものです。 |
夢中になって練習をしていた部員のため、先輩たちもよく指導に来てくれました |
体操を愛し、母校に誇りを持ち、体操で培った自信をその後の人生に役立て、今ある |
ことを感謝しながら青春の一こまを記してみました。
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昭和33年 県大会優勝の演技 |
静岡国体 2年生時 |
昭和33年インターハイ(長崎) |
昭和32年 高体連優勝 |
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<拡大写真> |
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昭和31年 第4回 県新人戦 高校男子団体 1位 |
昭和32年 第5回 県新人戦 高校男子団体 1位 |
昭和33年 第10回 県民大会 1位 |
昭和32年 全日本高校体操選手権大会(秋田) 高校男子団体 出場 |
昭和33年 全日本高校体操選手権大会(長崎) 高校男子団体 出場 |
鞍馬 7位(鞍馬規定1位で通過) |
徒手 9位 |
昭和32年 第12回 国体(静岡) 出場 |
昭和33年 第13回 国体(富山) 出場 |
昭和32年 第10回 東北大会(青森) 高校団体 出場 |
昭和33年 第11回 東北大会(岩手) 高校団体 3位 |
個人 第4位 |
跳馬 第2位 |
平行棒 第3位 |
徒手 第4位 |
鞍馬 第6位 |
昭和34年 第12回 東北大会(秋田) 成人団体出場 |
昭和36年 第14回 東北大会(福島) 一般男子出場 |
昭和38年 第16回 東北大会(岩手) 一般男子出場 |
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