「秩父宮殿下台臨記念碑」
 
  昭和10年11月、秩父宮殿下が岩手中学校の学校教練を視察する
 ため、大沢川原の旧校舎におみえになったことは、当時としては
 大変なできごとであった
  昭和13年に新しい校舎が完成した際にも、殿下のご休憩所にあて
 られた一室を、そのまま新校舎の一部として移転したほどであった
 
  この台臨の栄誉を永久に伝え残す目的で、早くから記念碑の建立
 が計画されていた。
秩父宮殿下  
   
   
  すなわち、台臨の20日後に開かれた職員会議で、すでに計画の決定
 をみている。それによれば、5ケ月間に職員は1人1円20銭ずつ、また
  生徒(6回生から10回生まで)60銭ずつ献金し、その合計金額
  250円余りを基金として、石碑を建立することになった。
  
  
 
※今の金額に換算すると650.000から700.000万相当か?。 
 
現在校舎敷地内にある記念碑   
 
 
   
 大沢川原校舎 昭和13年に完成した校舎 
 
  その後、三田義正翁の逝去という試練を乗り越え、二代目三田義一理事長は新校舎の建設の大事業
  に着手したが、それと同時に、台臨記念碑を新しい敷地内に建設する準備も進められた。
  新校舎落成式の段取りを相談する委員会の席上、「台臨記念碑も完了するよう取り計らう」ことが
  協議されている。
 
   記念碑の碑石は岩手山麓の葛根田川流域から、また台石は盛岡近郷の鑪山(たたらやま)から、それ
  ぞれ発見したものを用いることになった。その運搬に当たっては、いずれも職員、生徒が労力奉仕を
  した。
 
     
記念碑の碑石  鑪山たたらやま)  葛根田川 
 
   碑文は「鴻恩無窮」(こうおんむきゅう)の四文字とし、理事長と懇意な郷土出身の偉人、
    米内光政海軍大将に揮毫を依頼した。
        
 
米内光政海軍大将
※ 鴻恩=大きく深い恩恵    無窮=果てしない 無限 永遠 
    米内 光政海軍大将
 
 1880(明治13年) 南部藩士米内 受政の長男として盛岡市で誕生
  連合艦隊司令長官(第23代)
  海軍大臣(第19、24代)
  内閣総理大臣(第37代)
 
           ※ 岩手県出身の総理大臣は4名
              原  敬  (第19代)
              斉藤 実  (第30代)
              米内 光政 (第37代)
              鈴木 善幸 (第70代)
 
 
   こうして、新校舎落成式の約2ヵ月後、昭和13年12月23日に、台臨記念碑の除幕式が挙行された。
  式には三田理事長をはじめ、上村、小泉、吉田、淵沢、鈴木の各財団理事、評議員のほか、新岩手
  日報社社長 後藤清郎や、工事関係者などの来賓が参列し、佐々木校長の式辞と島軒教諭の工事経過
  報告に耳を傾けた。職員も生徒も、感激を新たにした1日であった。
 
   これが現在の、旧校舎正門門柱と石桜図書館の間に立っている「鴻恩無窮」の碑の誕生の
  由来である。
 
 
 昭和16年に講演のため来校した米内光政海軍大将(中央)
右端が三田理事長、左端は佐々木校長
 
 
  
     
現在の記念碑  旧校舎の門柱   当時の新岩手日報社社長
後藤 清郎氏
 
 
 
    軍事教練査閲のための秩父宮殿下台臨
 
     昭和10年10月1日、佐々木校長あてに秘親展書が届けられた。
    弘前市に滞在中の盛岡市長大矢馬太郎からのものであった。
 
 
 
 
 
 拝啓益々御清祥奉賀候           陳者
 秩父宮殿下同妃殿下には来る11月6、7、8、9日の4日間に渉り
 盛岡御滞在各地御縦覧の御予定に承候処、岩手中学校へは特に
 御臨みなさるる事に御内定相成たる哉に漏れ聞き候。
 誠に御光栄此上もなき次第今日より折角大に御奮励名声を中外に
 発揮せられん事祈上候右御内報申上候  怱々
                    大矢拝
   佐々木様
 
 
  他の公立校を差し置いて岩手中学校が選ばれたのは、軍事教練の成績が県下一優秀であったからだ。
 いや、県下のみならず、第八師団管下、すなわち青森、秋田、岩手の三県のなかでも最優秀であった
 かからである。
 
  大矢市長からの知らせはあくまで「内報」であり、11月7日の台臨するという公式通牒は11月に入い
 ってからであったが、新聞が1カ月もまえから書き立てたため、内報のことは生徒にも伝え、全校一丸と
 なって準備が進められた。生徒は各自タワシや雑巾を持参して石鹸で校舎を磨き、1ケ月のあいだに8回
 もの大掃除が行われた。すみずみまで徹底した掃除だった。校庭の枯れ木は伐採され、新しい木が植
 えられた。
  11月7日午後零時30分、職員生徒はそれぞれ奉迎の位置に整列した。教師たちは紋付かモーニングの
 正装だったが、何人かの若い教師はこの日のための借り物だった。
 理事長、学校長、配属将校は正面玄関前に立ち、一同高鳴る胸を静め、威儀を正しく、粛然として
 お着きを待った。
 
 生徒隊列の右側に位置した高橋ラッパ手が「君が代」を吹奏、続い
て「捧げ銃」の号令がかけられる。
やがて秩父宮殿下をお乗せした御召自動車が滑るように校門を入り、
一同最敬礼のうちに 玄関前に到着した。 
閣下はいとも軽やかに車を降り立たれ、理事長、学校長、配属将校の
挙手の礼を受けられると、ただちに 学校長の先導により御休 憩室に
お入りになった。 
 
 写真は「ラッパさん」こと高橋清一
 
 
 


 
秩父宮殿下をご先導する佐々木哲郎校長 
 
 
 


 
校庭に秩父宮殿下を迎えて  台臨直後の記念写真 
 
      学校長、配属将校は夫々本校の訓育状況、教練状況を言上して御前退席下した。 
     学校長言上文の一節には次の様にあり、当時の状況が偲ばれる。 <続はこちらから> 
 
   
 
   この時の配属将校は村井権治郎中佐であったが 
  その学校教練状況書の中にはづの様にある。
 
     「教練と訓育との連繋状況、御視察を仰ぎ奉りて」 
 
 
 
      参加生徒の親閲の感想 
                「4年生 皆川 弘」
                「5年生三浦友三」 
 
 
石桜50年史より引用 
写真し編者がカラーした 
 
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