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「岩手山」 昭和7年 F6 |
│小笠原 哲二 年譜│
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写真は昭和38年のものです |
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哲二先生は生涯画家と名乗ることも、また人にそう呼ばれることもよしとしませんでしたが絵画への真摯な |
取り組みと、残された数多くの作品は絵を描くものとしての天性を感じさせました。 |
芸術家で多趣味な父のもとで育ち、小さい頃から絵が得意だった哲二先生は盛岡工業卒業後、陸軍省航空廠所沢製作所に入り |
製図等の仕事をする傍ら、 太平洋洋画会研究所に学びました。 |
しかし栄養失調から体をこわし、1年余で帰郷。その後も故郷で代用教員などを務めながら、
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夏休みなどには上京して研究所やその他の講習に通いました。 |
大正12年からから地元の七光社展、昭和4年には素顔社展に出品。 |
昭和5年からは岩手中・高校などで約40年の美術教員生活を送りました。 |
教え子には美術関係に進んだものも少なくありません。 |
30代までは中央の展覧会にも挑戦、入選も果たしましたが、 仕事の合間に作品を描き上げそれを東京まで運搬するのに |
手間がかかることもあって、戦後は中央への出品はやめてしまいました。
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忙しい勤めの合間をぬっての制作でしたが、 亡くなるまでに開いた個展は通算28回。 |
「自然に向かっていればすべて忘れられる」 と言っていた哲二先生の作品はほとんどが風景で、大きいものでもせいぜい30号。 |
家には特にアトリエがあるわけでもなく、おのずと足は外へ向かいました。 |
小品主体ながらキャンパスに凝縮された表現、温かみを保ちながら甘さに流れない筆致、 |
色彩の豊かさで長年のうちにたくさんのファンが生まれました |
昭和44年に定年退職。 昭和56年、前年77歳で世を去った哲二先生をしのんで画友や教え子たちが企画した「追想の小笠原哲二展」では、 |
300点近い油彩が会場を埋め、多くの鑑賞者を集めました。 |
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太平洋洋画家会展、光風会展、白日会展入選。 |
岩手美術盟幹事 県高校美術連盟顧問 なども歴任して岩手の美術関係の発展と後輩の指導に当たられました。 |
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拡大してご覧ください |
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「枯れたバラ」
製作年不詳 |
「北山風景」
製作年不詳 |
「裸婦」
昭和7年 |
「画友M氏像」
昭和8年 |
「盛夏」
製作年不詳 |
「旧岩手高校校舎」
製作年不詳 |
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「晩秋」
製作年不詳 |
「暮色」
昭和46年 |
「上田・ニコライ堂」
製作年不詳 |
「盛岡市内から
のぞむ御山」
製作年不詳 |
「夏の盛岡」
昭和50年代 |
「城跡」
昭和36年 |
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「晩秋」
昭和46年 |
「初夏の頃」
製作年不詳 |
「高松付近」
製作年不詳 |
「上田風景」
製作年不詳 |
「下の橋」
製作年不詳 |
「池」
製作年不詳 |
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「雪の岩手山」
製作年不詳 |
「城の石垣」
製作年不詳 |
「バラ」
製作年不詳 |
作名不詳
製作年不詳 |
作名不詳
製作年不詳 |
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稲田 泰鱗(旧16回生) 足澤 至(旧15回生) 中村 光紀(新10回生) 川村 康二(新24回生)の各氏他沢山の方の協力を頂きました
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