<拡大写真>彩雲
第13期海軍飛行予備学生 生残りなお命の限り蝉しぐれ

戦中・戦後の戦い

    著者 小澤 甚一郎(旧11回生 昭和16年卆)
より抜粋
電撃特攻隊、偵察723空
 沖縄本島守備隊の玉砕という悲惨な結末で沖縄作戦は終結し、横須賀基地本隊に帰着して間もなく、私は千葉県木更津基地の偵察723空に転出することになっ
偵察723空は、名は偵察機隊でも、実際は18試艦上偵察機「彩雲」に魚雷を抱いて魚雷攻撃をする特別攻撃隊であった。
この「彩雲」は、「我に追いつく敵戦闘機なし」と謳われた名偵察機であったが、いよいよ最後の本土決戦を迎えるに当たり、この名偵察機をも魚雷特攻機として、敵の侵攻に対処することになったのである。
 723空も例によって全海軍航空隊の中から40名が選抜されて木更津基地に集められたが、この723空は、自分の隊で偵察や索敵を行い自分の隊で魚雷特攻攻撃を加えようとする特攻隊であった。
この体制は、沖縄作戦での苦い体験から生まれた体制で、沖縄作戦では、偵察機隊と攻撃機隊、それを護衛する戦闘機隊が別々の基地及び航空隊から発進していたため、相互の連携不十分からたびたび失敗してきたことに鑑み、この723空では、これらを一貫して実施しようとしたわけである。また、本土決戦となれば、もはや戦闘機などは無用であった。わが方も何百機という大戦闘機群で立ち向かうのなら別だが僅か10数機の戦闘機で、敵の何百機という大戦闘機群を相手にするのでは、とてもまともな戦いはできなかったからである。
そこで戦闘機の援護を必要としない高速偵察機「彩雲」によって、来襲する敵の艦船に対して魚雷攻撃をかけようとしたのである。
しかしこの計画も、千数百隻の敵の艦船群に対しては物の数ではなく、例え練習機まで動員しての特攻攻撃を加えるとしても、それ以前に、敵の大空襲や艦砲射撃等によって、日本列島は焼け野原と化し、かかる反撃は功を奏しなかったであろう。
 戦後になって、ベトナム戦争ではアメリカ軍が敗退したではないか。本土決戦をしていれば日本も勝ったかもしれない、と主張する人もいるが、ベトナム戦争の場合はその背後に巨大なソ連や中国が存在したため、アメリカは手を引かざるを得なかっただけの話である。
これに対し大東亜戦争末期の日本には、このような後盾は全く存在しなかった。同盟國ドイツもイタリヤも既に降伏していたのである。
しかし、当時の我々は負けるとは思ってなかった。何とかこの態勢を挽回しようと、最後の努力を続けていたのである。
 彩雲の操縦は少し難しかった。三座機で、操縦士は主翼の前縁に位置していたため、地上滑走中に、下手にブレーキを踏めば前のめりになる癖があった。また彩雲はスピードを早くするため、主翼は薄型の層流翼となっており、離着陸に際してはフラップ操作が面倒だった。
しかし水上戦闘機「強風」を操縦していた私には容易に習熟できた。
一応の離着陸訓練が終了するや、800瓩の魚雷に相当する水のタンクを装着して試験飛行を行い、魚雷攻撃の訓練も実施していたが間もなく昭和20年8月15日の終戦となり、この彩雲による特攻攻撃は実施しないままに終わった。


終戦、郷土訪問飛行
<拡大写真>      零戦52丙型機
 徳島基地に進出

 昭和20年8月15日正午、天皇陛下の終戦に関するラジオ放送を拝聴した。雑音が多く聞き取りにくかったが終戦に関するご詔勅であることはわかった。
その中で特に印象深かったのは「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」とのお言葉であったが、戦後の生活はまさにこのお言葉通りとなった。
このご放送後、しばらくの間は茫然自失の体だったが、やがて方々からすすり泣く声が聞こえるようになり、次第に騒然となってきた。
そして狂ったように防空壕に飛び込み割腹自決する者、拳銃で自決するものなどが出るようになり、このままでは収拾がつかなくなる恐れが出てきた。
 この有様を見て上層部は、このままでは混乱が増すばかりと判断したらしく、「723空は前進基地、四国の徳島基地に進出し、機を見て敵の機動部隊を攻撃せよ」との命令を下された。
 我々は8月16日の早朝、国鉄列車で徳島基地に出発、暗夜の瀬戸内海を宇高連絡船で高松にわたり、更に汽車を乗り継いで、8月17日の夕刻、鳴門海峡の断崖の上にある徳島基地に
到着した。
しかし我々の搭乗すべき彩雲は一機もおらず、その晩は大きなお寺の本堂に一泊した。
翌18日、飛行場に行ってみると、723空司令・青木大佐(佐世保空の青木司令とは別人)が到着されており、我々一同に対し、涙ながらに次の訓示をなされた。
「この終戦は全く天皇陛下のご意志によってなされたことである。従って、いま出撃すれば天皇陛下のご意志に反することになり、不忠の臣となる。だから諸氏は直ちに故郷に帰って待機し、次の指令を待て。5年後、10年後、あるいは15年後には必ず指令を出すから、それ
までは身体を大切にして、祖国の再建のために尽力してくれ。」と。
 かくして我々は復員することになったが、徳島から汽車で東北の盛岡まで帰るのは大変だと思った。しかしそれよりも私は、いかに敗戦となっても、何とかして郷土訪問飛行を決行し、郷土の空で最後の単独航空ページェントを実施し、郷土の方々に謝罪して、私のパイロットと
しての青春に決別したい、と考えた。
しかしこれを実施するためには零戦が必要である。しかし徳島基地には零戦は存在しなかった。そこでどこか他の飛行場に行って零戦を捜すことにした。
 
90機練で徳島を飛び立つ
 
 幸い徳島基地には90機練という、偵察員の訓練に使用する機上作戦練習機が数機配置されていた。
私は同乗者6名と共にこの90機練に飛び乗り、徳島基地を飛び立った。
この90機練は何度もジャンプしながら辛うじて飛び上がり、鳴門海峡を横断し、鈴鹿山脈にさしかかったが、辛うじて飛んでいる状態の練習機なので、零戦のように山頂を飛び越すような力はなく、山の谷間を縫うようにして何とか鈴鹿山脈を越え、その日の夕刻、愛知県の岡
崎空に到着し、岡崎空に一泊した。
翌19日、岡崎空に適当な零戦はないかと聞いてみたが、ここにも零戦はなかった。
同行者は鳥取、島根県出身者が多かったので、私は更に岡崎空から琵琶湖を越え、石川県の小松空に行くことにした。

 小松空から零戦で盛岡へ


 小松空には零戦がたくさん並んでいた。私は指揮所の指揮官らしき人に「青森県の三沢空まで行きたいので、零戦を一機貸して下さい」 と頼み、沖縄作戦で使用した零戦52丙型機と同型の零戦を拝借、午後1時ごろ、小松空を飛び立った。
予定コースは、日本海岸を北上し、新潟上空から内陸に入る予定だったが、小松空を飛び立って間もなく、富山湾上空に到達した時、突然、増槽タンクの燃料が切れ、エンジンがブス
ンと停止した。
増槽タンクの燃料切れはこれで2度目である。1回日は沖縄作戦の徳之島征空攻撃の時である。
三沢空までの片道飛行だから燃料は十分だと思ったが、安全を期し、予定コースを変更して北アルプスの山脈越えの、盛岡までの直線コースを取ることにした。


 入道雲の林立で機位を失す

 しばらくその直線コースを飛んでいると、前方の遠くの方に10数本の入道雲が林立しているのが望見された。
これは日本海から吹き寄せる湿気の多い空気が山岳地帯に突き当たり、上昇気流となって入道雲(積乱雲)が形成されたものである。
遠くから見れば小さな入道雲も、だんだん近づくにつれて巨大となり、入道雲に突入すれば種々のトラブルが生ずる恐れがあるので、私は入道雲を右や左に避けながら飛行していた。
そのうちに私はシマツタと思った。入道雲を避けて飛んでいるうちに自分の機位を失ってしまった。つまり、自分が飛んでいる現在位置がわからなくなってしまったのである。
私は計器飛行で飛んでいたので、この機位を失したということは非常に不安だった。私は慌てて下界の山々を見回したが、上空から見る山は、どの山が何という山なのか、航空地図と対比しても全く見当がつかなかった。
私は必死になって、何か目標になるものがないかと捜したがなかなか見つからず、そこで私は思いきって東に変針し、東京湾に出てから北進しようと右に旋回しながら、フト、下界を眺
めると、ある山の頂上に噴火口らしい丸い形の湖を発見した。シメタツと、航空地図を見ると、それは福島県猪苗代湖南方の沼沢沼という湖であった。
この沼沢沼の発見で安心した私は、沼沢沼から猪苗代湖、郡山へと出て、後は地上の地形を確認しながら安心して北進することができた。このような次第で、沼沢沼こそは私を救ってくれた恩人のように思っていたが、後年になって、私が東北電力福島支店勤務になった時、猪苗代方面の昭和村というところで大水害となり、昭和村が孤立状態に陥ったので、そこの救援に行ったことがあった。ところが途中の橋が流失し、我々一行はどうしても沼沢沼の山越えをしなければ昭和村に行けなかった。そこで沼沢沼湖畔を通りかかった時、私は雨の中、沼沢沼に向かって合掌冥目し、しばし感謝の念を捧げることができた。この沼沢沼は、現在、出力30万キロワットの揚水発電に利用されている。


 盛岡上空でエンジン故障停止

 私は郡山市上空から北進し、やがて仙台市上空に達した。仙台市の約半分は空襲で焼け野原と化していた。
更に北進を続け、やがて岩手県に入り、北上平野の美しい田園風景を眼下に見ると、あまりの懐かしさに感激の涙が出てしょうがなかった。

しかし夢にまで見た北上川の清流は茶褐色に混濁しており、北上山脈は殆どが禿山だったことにはガツカリだった。九州でも四国でも、石川県、富山県でも、また福島、宮城県でも、山は植林等で鬱蒼と茂っていた。それなのにわが岩手県だけは禿山の連続だった。これはショックだった。
昔懐かしい水沢、黒沢尻、花巻等の町町を眼下に眺めながら北上し、盛岡市の南方約20粁の日詰の城山上空に到達するや、はるか前に盛岡市が見えてきた。わが家は八幡宮と気象台との中間の高台にあった。私は日詰の城山の上空3000米から、わが家を目がけて緩降下
し、わが家の屋根スレスレに通過し、盛岡市街を超低空で通過したところ忽ち岩手山に衝突しそうになり、左に急旋回して盛岡市の西方を大きく回り、再度わが家の上空スレスレに通過し、操縦拝をグイッと引いて急上昇し、高度2000米まで上昇したところ、岩手山とはぽ同高度となった。
 いよいよ待望の単独航空ページェントを実施することになった。私はかねてよりの腹案通りに、垂直旋回左・右と入れて8の字形に旋回し、引き続いて宙返りに入った。私の予定では、この宙返りを3回連続して実施し、宙返りの頂点で宙返り反転に入り、続いて緩横転、更には
上昇スローロールと、連続的に実施する予定だった。
ところが宙返りの頂点直前で失速直前の振動が生じ、これは変だと直感した。私は宙返り反転(インメルマン・ターン)をして失速を防ぎ、機体を水平に戻した。宙返りに失敗した私は、 飛行機の状態が少し変だと思いながら、緩横転 (スローロール) ならできるだろうと左に横転を始めた。
ところが背面になった時に、突然、エンジンがブスンと停止してしまった。
これに慌てた私は直ちに機体を横転させて正常姿勢に戻し、機首を突っ込んで失速を防ぎ、滑空降下した。そして考えた。エンジンが停止した以上、どこかに不時着するか、落下傘降下するはかはない。しかし都会の上空では落下傘降下はできない。飛行機の墜落場所で大惨事を引き起こす恐れがあるからである。
そこで私は不時着を決意した。盛岡市の北方には陸軍の観武が原練兵場があった。中学時代には、よくここで軍事教練を受けたものである。よし、観武が原練兵場に不時着しようと決意し、その方向に滑空していった。ようやく観武が原練兵場上空に到達して練兵場の様子を見ると、練兵場の至る所に妨害物が置かれており、到底着陸は不可能であった。これは米軍機の降着を阻止しようとしていたらしい。
そこで私は練兵場への着陸は断念し、盛岡市の南方の北上川に不時着水しようと、エンジンの停止した零戦を、失速しない程度のギリギリの降下角度で、盛岡市の南方方向に滑空降下して行った。
ようやく盛岡市南方の北上川の明治橋の下流に到着し、いよいよ不時着水せんと、いつもの癖ででスロットルレバーを静かに引きながら、降下着水姿勢に入った。いよいよ着水せんとした
直前、突然エンジンがプルプルーンと起動してくれた。シメタツと私は不時着姿勢から上昇に転じ、スロットルレバーを前に出し、エンジンを増速せんとした。
ところが、スロットルレバーを前に出すとまたもやエンジンがストップしてしまった。これに慌ててスロットルレバーを前に引くと、またエンジンがかかってくれた。プロペラの回転計を見ると、1500回を過ぎるとエンジンが停止することが判明した。正常な回転数は2500回転である。それで私は調速機(ガバナー)の故障と判断し、エンジンが動く限界までスロットルレバーを絞り、何とか水平飛行を保った。
しかし辛うじて水平飛行を保っている状態なので、北方の山岳帯を飛び越えて三沢空に行くことは到底不可能であった。

 陸軍の後藤野飛行場に不時着


 さて、、どこに不時着しょうかと考えた結果、陸軍の「後藤野飛行場」に不時着することにした。後藤野飛行場は盛岡市の西南方約60粁の地点にあり、中学時代に勤労奉仕をしたことがあった。私は次第に高度が下がりかける飛行機を懸命に耐えさせながら、後藤野飛行場に向けて超低空の飛行を続けた。ようやく後藤野飛行場に到着したが、後藤野飛行場周辺一帯には、小さな松の木が生えていたが、辛うじて後藤野飛行場に到着した時には、もう、この小松林スレスレであった。この盛岡から後藤野まで60粁の超低空飛行は一瞬の気のゆるみも許されない実に大変な飛行だった。エンジン故障のため全く上昇できず、エンジンがストップすれば一巻の終わりだったからである。
飛行場に着陸する場合は、必ず上空通過をして滑走路の状況や、風向きなどを確認して着陸するのが鉄則だが、この時は全くその余裕がなかった。また、零戦が着陸する場合はフラップを下げて減速して着陸すべきだが、これもできなかった。フラップを下げれば空気抵抗が増大するので、それだけエンジンを増達しなければならないが、この場合、エンジンの増速は不可能だったからである。
このようなわけで、私は北方からの侵入方向そのまま、フラップも出さずに、いきなりとり込み着陸を敢行した。着陸した場所には大きな石がゴロゴロ転がっており、さながら石川原に着陸したようで、機体がガタンガタンと振動し、今にも車輪が壊れるのではないかとヒヤヒヤ
だった。
間もなく、真正面に格納庫が迫ってきた。フラップ制動をしないままの高速着陸だったのでなかなか行き足が止まらず、そのまま直進すれば格納庫に突き当たりそうになった。いよい
格納庫に接近するや、私は右足を一杯に踏んで飛行機を回し、格納庫への衝突を回避した飛行機は行機はグルグルと右に回転し、車輪が折れるのではないかと心配だったが、幸いに車輪は折れずに止まってくれた。
 しばらくすると陸軍の兵隊さんが4~5人集まってきた。事情を話し、指揮官に会わせて頂きたいとお敵いした。指揮官荒川少佐という方だったが、荒川少佐にお会いする前に、兵隊さん方は早速エンジン・カバーを外し、内部を点検してくれた。するとある兵隊さんが「何かの索が切れています」と知らせてくれた。何の索だろうとよく見ると、それはプロベラの角度を調節するピッチレバー索であった。
さらに兵隊さん方は海軍の戦闘機が珍しかったらしく、主翼の機銃の弾槽カバーも開けてけてみた。すると20粍機銃も、13粍機銃も全弾装備されており、機銃の発射がすぐ出来るようになっていた。これでエンジン故障停止の原因がすべて判明した。私は機銃が全弾装備されていたことには全く気づかず、超荷重状態のまま無理に宙返りなどをしようとしたため、宙返りができなかったわけで、無理に宙返りや緩横転を実施したためプロペラに非常な負担がかかり、プロペラのピッチレバー素が切断し、プロペラのピッチが高ピッチになったため、エンジンにノッキングが生じてエンジンが停止したのであった。 (これは自動車のギヤーチェンジを4速にしたまま坂道を登るとノッキングが生ずるのと全く同じ原理である。)
 ピッチレバー素の切断であるから、簡単に応急修理ができたが、その時はもう夕闇が迫っていた。荒川司令官にお会いしたところ、荒川司令官は「今から出発するのは危険だから、今夜はここで泊まって行け」と言われ、私はそのご厚意に甘えることにんた。生まれて初めての、陸軍の宿舎泊まりだった。
  8月20日の午前7時、私はお世話になった荒川司令官と兵隊さん方に厚くお礼を申し述べ、いざ出発しようとしたところ、荒川司令官は米一升を持参された。私は固辞したが「これからもどんなことが起きるかもわからんから是非持って行け」と言われ、有り難く頂戴して後藤野飛行場を飛び立った。
前日の事故に懲りた私は、盛岡のわが家を超低空で一航過しただけで、一路、三沢空に向けて北進した。

 濃霧に覆われた三沢空に強行着陸
 
 やがて盛岡の北方の奥中山峠の山岳地帯を飛び越え、八戸平野を望見してアッと驚ろいた。
八戸平野l帯が厚い濃霧に覆われており、見渡す限りの雲海だった。三沢空の上空付近に到達しても、どこに三択空があるのか、全く見当もつかなかった。
雲の下にはどんな障害物がある
かもわからないので、この厚い雲を突っ切って雲の下に出ることは出来なかった。だからと
いって、他の飛行場まで行けるだけの燃料もなかった。
ふと、西の方を見たところ、雲海の中に八甲田連峰の山々が頭を出しているのを発見した¢
私はこれを見て直感的に、八甲田山の山腹斜面に沿って雲海の下に潜り込むことを考えた。私は飛行機を八甲田山の山腹斜面と雲海の交叉している場所に持って行き、山の斜面に沿って、スキーで滑り降りるように飛行機を降下させていった。
暗い奈落の底に吸い込まれるようで気持ちが悪かったが、もう、この方法以外に雲の下に潜り込む方法はなかった。
やがて完全に雲海の下側に潜り込むことに成功し、私は三沢平野を這うように超低空で、三沢基地と思われる方向に東進し、ついに三沢飛行場を発見し、やすやすと着陸に成功した。三沢空の人々は非常に驚いた様子だった。
濃霧中の強行着陸は、三沢空始まって以来の快挙だった由である。しかし敗戦直後のこととて、この快挙も全く後の祭りに過ぎなかった。
 私は三沢空の飛行長室に招かれ、飛行長に会ってアッと驚いた。飛行長は土浦空に入隊した時の直属の分隊長、斉藤礼雄大尉が少佐に進級しておられたのであった。そしてその日は一日中、同期生たちが斉藤少佐の私室に集まって歓談し、話は尽きなかった。
歓談は深夜まで続いたが、最後に斉藤飛行長は、「これからが、君たちの本当の腕を発揮できる時だったのに、こうなって残念だなあ」と嘆息された。
 私はその晩の午前1時、古間木駅(現在の三沢駅)を発って8月21日の朝、盛岡のわが家に帰着した。表玄関から入るのは気が引けたので、裏の勝手口からコツソリと「ただ今」と言うと、朝食の準備をしていた年老いた母はビックリして、しばし呆然としていたが、やがてオイオイと泣き崩れるだけだった。母は銃後の母として、女手ひとつで幼い弟妹を養ってきたのだった。
 父、、小澤泰治は未だ満州北安省龍鎮二戸郷開拓団(岩手県二戸郡出身の方々の満州開拓団)にあって未帰還だったが、昭和23年になってから、この開拓団の方々を、1人の落後者も出さずに、全員引き連れて無事帰還した。従って二戸諾拓団には、いま騒がれている
ような残留孤児は1人もいないのである。

<拡大写真>  今まで自主出版した小澤 甚一郎氏の著書