教皇庁立 ウルバノ大学      

バチカン市国  Stato della Citta´del Vaticano


見取図
ウルバノ大学 バチカン市国MAP バチカン市国 国旗 バチカン市国 国章 サンピェトロ大聖堂
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ー195712月のメモよりー
 もう15・6年も前のことになってしまって、だいぶ記億も薄れかかってきたが、
イタリア留学(教皇庁立ウルバノ大学 Pontificia Universitas Urbaniana)を終えて帰国する日も押し迫ったころ、
教会のお手伝いをして貯えていたお金で、フィレンツェピサボローニヤヴェニスパドワ、そしてナポリ
ポンペイなどを大急ぎで旅行した。
殆ど予備知識も持たないぶっっけ本番的な旅行だった。
なんでも見てやろうというよりは、気に入ったものだけ見て廻ろうとはじめから心に決めていた。
あんなに沢山の文化遺産をどのようにして良く見て歩けようか。

 そんな気持で廻ったその時の感想を、なにかにメモしていたことを思い出し、あちこちひっくり返してみたところ、
部分的ではあるが、2・3枚の紙に走り書きしてあるのを見つけた。

ヴェニスを去るのに、全然スケッチをしないのは心残りなので、予定を変更し、もう一晩泊って
少くともサン・マルコ聖堂のスケッチだけでもして行くことにした。
朝七時半に起き、急いで顔を洗い、挨拶もそこそこにヴェニス教区神学校にいとまを告げ、
ミサを捧げるべくサン・マルコに向った。
サン・マルコ聖堂 昨日のテレビによると、今日のヴェニスは霧におおわれている筈であったが、弱々しいながらも陽は照っていた。
サン・マルコの聖堂も広場も、満潮になると水浸しになり、ところどころに渡り板が置かれるが、そのせいか内部の
壁や、登服にいたるまでなんとなく湿っぽいのが嫌な感じだった。10人ばかりの人たちがミサに与っていた。
サン・マルコを出てから広場の一角に立ち、名残惜しいヴェニスにおさらばする記念にと聖堂のスケッチにかかった
陽の照りが弱いので、日蔭とのコントラストがあまり強くないが、ままよと始めて結局、真黒な
サン・マルコができあがったもう一枚をと思ったが、時間もないので急いで蒸気船に乗りヴェニス駅に向う。
サン・マルコから駅までは大体45分位かかったようだ。広い海の真只中に立てられた長い
鉄橋を走るのは、不安定で奇妙な感じだった。
さて、パドワ行の汽車発までにはまだ20分位の時間があるので、近くの聖エレミア教会に行ってみる。
ここにはカンツォーネで有名なサンタ・ルチァの遺骸が安置してある
ベニス駅 2分もこの教会にいて直ぐ飛び出すように再び駅に向う。途中、昼食のためにとピッツァを1ケ買う。
120リラなりと。サン・マルコ広場の近くでは80リラしたものがここでは40リラも高くつくのでおかしいと思い、
100リラに値下げさせる。

パドワ
行きの汽車に乗る。ヴェニスーバドワ間は約一時間の道程である、パドワは信仰に熱心な信者が多いと聞いている
私はそれが一体どんな風に自分の体験になるかと全身の皮膚を鋭どくさせて駅を出た。
ヴェニス人は非常に親切だった。そして人の扱かい方がいんぎんである、上品というところか。
ローマ、特にナポリなどにおけるようなあのあまりにも人間嗅いところがないようだ。
あちこちの土地で教会を訪れるごとに、どの位の信者が日常お参りしているかをよく注意して見るようにしていたが、
どこもそんなに多い訳ではなかった。まず5・6人というところである。

さてパドワではどうだろうかと期待に胸をふくらませて、まずボストンバッグを駅の一時預所に預ける。
駅前からバスに乗って予定のスクログェニ聖堂に行く。ジョットの壁画で有名な聖堂である。
聖堂は小さな公園みたいなところの真中に、全くチョコンとした感じで立っていた。
十三世紀の古い教会である。観覧時間は午前九時から午後一時までと書いてあり、時間切れまでにはまだ
相当ある筈なのに閉っている。
丁度近くにいた紳士が呼鈴を鳴らせと合図してくれた。訪ね人が少ないので、
守番が傍の家に引っ込んでいるのであった。呼鈴を押すと、直ぐ若い女の子が出てきて門を開けてくれた。
もう教会としては使われておらず、美術館になってしまっている、見学科150リラとられる。さて小さなカペラに
壁画が四方一杯に描いてある。全体としての色彩は割合によく保存されている方であろうが、部分的には相当
はげているところもある。600年前の代物であるから、これでもよく保存されている方だろうと思う。
に中央祭壇に向って左側の真中頃にある上から下への三枚は色彩の破損が極めて少ないようだった。
そのブルーの色彩は誠に鮮やかであった。あまりきれいなので中の売店で売っている複製写真がどれ程忠実に
写しているものかを並べて比較してみた
複製はおしなべて色彩が濃すぎ、本当の色を再現していない。そこで複製写真を買うにしても大いに
注意する必要ありと心に銘記した。
絵自身から受ける感じは硬く、又人物は静的だ。
しかしながら、そんな中にも躍動する深い精神性がよく描かれているのに感心する。
恐らく勝れた宗教画というものは、なによりもまず、描かれる人物の中に精神性がにじみ出ていること、
あとは第二義的な意味しかないのではないかと考えさせられた。

特に『ユダの接吻』には強烈な印象を受けた。
心の奥底を見透すような鋭さと澄み切ったキリストの眼、悪いことと知りながら平然を装おうとする濁ったユダの
眼のぶつかり合いは恐しいほどで、心をえぐられる思いがした。
ユダの接吻

さて、スクログェニ聖堂を去って、聖アントニオ聖堂に向う
イタリヤ人の聖アントニオに対する信心は有名だ。まして同聖人のお墓があるこの土地のことである。
その信心たるや模範的ならんと想像する。途中高校生らしい多勢の男女と出会う。
彼らは私を好奇の眼をもって見ていた。ある者の如きはわざわざ立ち止まり、頭右をしながら私を眺めていた。
要するにパドワと言えども、東洋人が現われるのは極く稀なことなのであろう。
聖アントニオ聖堂 と同時に神父がスータン(僧服)を着ずクラージーマンスタイルで歩いているのがよほど
珍らしかったかもしれない。
サン・アントニオ大聖堂の前に出た。なるほど既に日本でも写真で見て大体知ってはいたが、四つの円いクポラを
もった堂々たる建物である。しかし12時をもうとっくに過ぎていたし、おなかもすいたので、中に入って見る前に先ず
腹ごしらえをと、大聖堂向いにあるバーに入り、カプチーノを一つ頼んで、ヴェニスから持参したピッツァにかぶりついた。
2、三3人男の客がいた。そこでパドワ方言を身近かに聞くことができた。ヴェニス方言と似ているようだ。殆どわかった。
ここのバーのおばさんはなかなかの話好きと見え、私が機会を捉えて話しかけたのが始まりとなって、いろいろの
話題に花が咲いた。折りを見はからって、パドワ人の聖アントニオに対する信心は、相当迷信じみているという話が
あるがどうなのかと意地の悪い質問をやってみた。そしたら彼女曰く
『そんなことは絶対ない。私どもの聖人に対する信心は、彼が神さまの前で、私どものために取次ぎをして
いただくのに最も適当な方だと思うからなのであって、決して神さまと同等に見倣しているわけではない』
という返事である。
そこで私はさらに山下清ではないが、兵隊の階級にしたらどの位のところかなと聞いてみた
そしたら、マリアさまが元師の位とすると、まあ大佐位だろうというのである。
どの聖人が1等兵になるのか、これは面白い問題ではあるが、この返事によって、少くとも彼らの聖アントニオ信心が
決して迷信的なものではないことがわかり、失礼な質問をしたもんだと反省した。
バーを出て大聖堂に入る。内部のデコレーションの美しさもさることながら、まずなによりも清潔な感じのする教会である。
アニトニオのお墓は中央祭壇に向って右側の特別大きく作られたカペラの祭壇の裏側にあった。
お墓の廻りに数人の男女が集まっていたが、みな一様に墓石にじ一つと手を当てながら、丁度小さなどもが母親に
すがりつく時のように一種独特の親しみ、信頼感の表情を見せてだまって祈っていた。
子どもたちも親たちのするのを真似ていた。
崇高な美しい情景だと思った。私もやってみたいと思ったが、習慣上の違和感がでてきて、一寸やりにくかった。
それでも若しだれも見ていなかったらやったかもしれない。お互いに愛情を身体で表現することに慣れていない
私どもには、なかなか難しい仕草である。
それを考えながらも、このことに関してはなにかしら心残りとなるものがあった

教会を出て、直ぐ近くにある聖ジュスチーナの教会へ向う。
この教会はサン・アントニと比較して少し大きいようだ。殆ど同じスタイルであったが、前者のように華やかながらも気品のある装飾
がないためかなんとなくもの足りなさを感じた
このようなスタイルの教会は、現代建築の教会に比べて、装飾に多大な依存をしなければならない運命をもっているような気がする
ここを出てからサン・ジュスチーナのスケッチをして、次に司教座聖堂に向かう。
この聖堂も、前者の二つと同様美しい外観をもっていたが中に入ってサン・ジュスチーナと全く同じ感じを受けた。
要するに未完成なのだろう。
司教座聖堂の洗礼堂は有名であるが、時間外でもう閉っていた。

いずれにしろもう主なところは見たので、今度は町を歩いて見ることにした。
パドワ弁はヴェニスに良く似ていることは前述したが、しかしながら家の造りはむしろボローニヤの方に似てるいると思った
しかしそれも旧市街だけで、新しい区域は、伝統的なものさえも失ってしまったような造りに思えた。
この点ボローニヤの方は、新しくモダンな建物でも、なんらかの形で、古い造りを受けついでいるように思う。
古い区域の所在を尋ね、その方向に歩いて行ったとき、どうも造りが新しいもののような気がして、もう一度通りすがりの人に尋ねたら
その辺は最近出来た家ばかりだから、私が連れて行ってあげようという
結局同じ道を引返すことになった。旧市街に入ると彼は、主な建物、道路などいろいろ説明してくれた。
駅の方向に向って歩いたのであるが、午後11時過ぎの汽車でパドワを発つことにしていたので、まだ5時間あまりある。
そこで聖アントニオが亡くなった家をそのまゝ入れて造ったという駅の後ろの教会も尋ねてみたいから、こゝでお別れしようと言った
ところ、彼はフィアンセに会うまでまだ時間があるからとそこまでも連れて行ってくれた。
なんでこんなにまで、見知らぬ外国人に親切なのだろうといぶかりながら、いろいろの話の中で尋ねてみた。
彼は外国人である私を知ったのが非常に嬉しいのだという。そして途中バーにまで立ち寄り、コーヒーをごちそうしてくれた
バスの運転手をしているとのことだったが、とても人なつっこく親切な青年だった
その教会では、クリスマスを間近かにひかえて、9日間の祈りが行われていた。
わりと大きな教会で、席は殆んど一杯だった。祈りを唱えるにしろ、聖歌をうたうにしろ良く訓練されているなと感じた
この面からもこの土地の人々の信仰生活の熱心さがうかがわれるような気がした。
メモはここで切れてしまっている。くだんの青年と、いつどこでお別れしたかはもう思い出せない
このあと又ひとりでぶらぶら歩いている中に方角がわからなくなり、通りすがりのご婦人に駅までの道を尋ねたところ、あなたは日本人か
発車までまだ時間があるようだから、よかったら私の家にいらっしゃいと言われ、心臓強くついて行った。
ご主人はパドワ大学の教授で、スラグ系の苗字をもった方だった。
ロベルトとジョルジョという二人のかわいい男の子たちがいた。
夕食にスパゲッティをたんまりごちそうになり、最後にはご主人に車で駅までも送っていただいたことが忘れられない。

パドワ。本当に親切な人たちの住む良い町だった。
挿入した写真は<拡大写真>
※ 北国を描く (鷹觜 達衛神父のスケッチ集)よりCP編集









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自画像 1955年 ウルバノ大学時代の
ラクビー仲間と
1958 
司祭になりたての頃 母と