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■わが校ハンドボール部の創設は、、昭和24年にさかのぼることができる。
本県にハンドボールが導入されるや、進取の気性に富む体育教師戸嶋正夫のきもいりで、たちまち11人の
同好の士が集められ、クラブを結成したのがその始まりである。
何分にも新しい種目だけに指導者もなく、練習場もなく、ないない尽くしで苦労は絶えなかった。
■最初のメンバーは、舞田慶文、小川隆、佐藤清、伊藤虎之助、遠藤益夫、照井勉、栃内重雄、米沢祐吉、
萱鴻、萩野力、田中義明らで、昭和24年県民体育大会が初試合であり、指導者のいる分一日の長のある
一関高校と対戦、1対3で敗れている。
翌25年には早くも部に昇格し、、体育教師足沢至を顧問として、練習にも熱が入ってきたのであるが、
花巻高 に1勝したにとどまっている。しかし、この年宮城協会との対抗試合で、先進県の仙台二高と引き分
けの好試合を行い、自信を強めた。 |
池口 杜孝氏 |
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■その後は先行の盛岡一高打倒が目的の日々が続くのであるが、同じ目的の花巻高との定期戦を組むなどしての抵抗もむなしく、
常に盛岡一高に名を成さしめていたのは無念の極みであった。
当時の校誌「石桜」50号(昭和29年発行)にその頃の様子が、次のように記されている。
「県民体育大会 − 7月2、3、4日
準決勝、好調の本校は花巻高を相手とせず19点を上げ、本県での最高得点数をも記録し、堂々優勝候補の貫禄を示す。
決勝戦、今日の1戦は学校で授業があったにもかかわらず、3年生を初めとした高校の諸君が集団サボをして、我々を応援に来
てくれた。そのため一高応援団と試合前からの応援合戦が激しく、ェキサイトしたゲームとなり、熱戦をくりひろげたが、またも追い
っけず、諸君の応援にもかかわらず敗れ去った。
高体連 − 9月10、11、12日
準決勝、千厩高に不戦勝。
決勝戦、全力を尽くして戦った我々は、遂に前半1点の差をつけて有利にゲームを進めた。さあ優勝が目の前だ。1点を守り切ろう
とした我々は、心のゆるみと疲れで長蛇をのがす。諸君、技術と体力では勝てなかった。我々は精神の技を磨かなければだめで
あるということを証明してしまった。
「下級生諸君、我々の無念見事はらしてくれ!」
■続く昭和31年には、盛岡一高と共に第2代表として東北大会に出場、後に法政大学ハンドボール部の主将を務めた、主将の
宮野典夫、名キーパーの箭川尚文を擁して、決勝戦は再び岩手県代表同士の対戦となり、わが校後半同点に追いつき、あわや
延長戦かと思われたタイムアップ寸前、味方の反則でフリースローを与え、これが決勝の1点となって6対7で惜しくも敗れてしまった
のであった。
■その後東北大会出場は、その年から顧問は国語教師池口杜孝となり、サウスポーの主将佐々木昭壱の活躍した昭和33年、ポイン
トゲッターで主将の泉沢則夫を中心に、チームワークで代表権を手にした昭和42年の2回にとどまり、いずれも第2代表であり、初戦
敗退の不本意な成績となっている。これらに限らず、長い歴史を誇るわりには目立った成績を残せず、後進のチームに名を成さしめ
ているのは誠に残念というほかない。
■練習コートの苦労も語り継ぐべきものの一つである。昭和49年旧校舎の東裏側にテニスコートの跡地をもらって専用となるまでは、
校庭で他部との一緒の練習で、ラグビー部員の猛烈なダッシュを気にしていると、頭上から硬式野球部のボールが容赦なく飛んで
くる。陸上部員がかけ抜けるといった、まるで戦場にいるような練習を強いられていたもので、よく大きな怪我人が出なかったものと
不思議なくらいである。
7人制になってコートがせまくなっても専用の場所がなく、校舎寄りに半コート取っての不自由な練習が続いたが、それでもラグビー
部の突進と野球ボールの急襲は依然として続いた。
昭和53年新校舎が完成すると、校庭北東の隅に専用のコートを持って、やっと本格的な練習が出来るようになったのであった。
その後昭和61年より中央通り道路を隔てたところに専用コートが移され、周囲に高々と防球ネットが張り周らされ、安心して練習に
専念できる立派なコートとなって今日に至っている。
しかし、7人制になってからは、何といっても室内コートが主体で、それがないことが悩みの種であったが、昭和62年、待望久しか
った体育館が完成、顧問の強い要望が入れられて、正規のハンドボールコートが取れるようになったことは、誠に喜ばしいことであ
り、今後の活動とその成果に大いに希望の持てることになったのである。
■こうした悪条件の中での練習に、コーチとしてあるいは例年の合宿はもとより、ユニフォームの新調、ゴールポストの購入、バックネ
ットの設置等々、部費の少ない分をすべてOBに頼ったのであるが、随分と援助を仰いだものであった。
コーチとして活躍してもらったOBの主な人々を上げれば、岩渕一義(昭和27年卒)、舘沢直幸(同30年卒)、
宮野典夫(同32年卒)、工藤達男(同32年卒)、及川紘(同36年卒)、泉沢則夫(同43年卒)、高橋寛(同45年卒)、
岡村悟(同49年卒)、川崎淳一(同52年卒)、藤村靖(同53年卒)、日向一義(同55年卒)、永山信(同58年卒)等であるが、何と言
っても、OBの要として、長く陰に陽に世話をしてくれているのは舘沢直幸であり、わが校ハンドボール部員で、彼を知らないものは
ないと言っても過言ではあるまい。
殊にも彼の子供がわが校に入学、ハンドボール部に所属していた時は、また格別の熱の入れようで、部員も多く活気に溢れていた
が、上位進出は果たせなかったのは残念であった。
また三浦兄弟にも随分世話になった。兄の三浦靖人(昭和35年卒)は自衛官として、一本木の自衛隊での3年続いた合宿に
全面的に協力してくれたし、弟の三浦敏彦(同36年卒)は芝浦工大ハンドボール部に進んで、マネージャーとして活躍し、後輩の
指導に当った外、家業の土建業を通して、バックネットの設置など心よく引き受けてくれたものであった。そうした時、一緒に力を
貸してくれているのは同期の須賀靖朗である。
わが校OBでただ1人公認審判員となったのは泉沢則夫である。彼は東北学院大ハンドボール部の主将を務めたのであるが、
これに続いて学院大で活躍したのが、岩手選抜チームのメンバーにもなったことのある高橋寛である。
■わが校の将来を展望するとき、顧問も昭和57年よりハンドボール部のOBでもあり若手の国語教師吉田文明となり、伝統も練習
コートも申し分なく、残るは部員各自のたゆまぬ努力と精進によって、必ずや優勝旗をわが手にするものと信じてやまない。
そこでの課題はくしくも、先輩がその歴史の初期において語ったごとく、「精神力」の養成以外のなにものでもない。これまでも幾度
となく上位進出、あるいは優勝のチャンスはあったのである。それをものに出来ずに今日に至っているのも、すべてここ一番の
精神面の弱さにあったと言うことができる。
今後よく精進して、その歴史の古さに恥じないような立派な成績をあげることこそが、わが校ハンドボール部に課された
使命である。
岩手県ハンドボール協会 平成元年11月23日発行
創立40年周年記念誌 岩手県ハンドボール史 より引用
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