The history of the ice skating   アイススケートの歴史 NO 3
 競技発足時代(大正15年〜昭和5年)

 大正15年から第1回県下スケート大会が開催されたが,フィギュア、アイスホッケー,女子スピード,バックスケート(後進競走)などで,スケートはフィギュア用が多く,また種目別にそろったスケートで競技するまでにはなっていなかったし,一人が同じスケートを用いて各種目の競技をした。
 当時諏訪湖では,スピード用の下駄スケートが用いられていたが,盛岡には普及しなかった。当時(大正14年),既に全国学生氷上連盟が組織され第1回大会を松本市外六助で開催しているが,アイスホッケー競技には松本高校,早大,慶大,東大が参加し,フィギュア競技も行なわれたが,スピード競技はまだ行なわれていなかった。翌15年の大会にスピード競技が加わり参加校も北大,明大,二高とふえており,ようやく3種目の本格的競技がスタートしたばかりである。昭和3年1月19日には、前沢出身の太田幸兵衛を中心とする慶大スケート部が来盛し,亀が池で午後2時より全盛岡とのホッケー初の公式試合が行なわれた。

   慶   大           全 盛 岡
    平 林           今 野(明大)
    金 子       R、W    平 野(盛中)
    齊 藤      L、W    加 藤(協会)
    高 橋      R、    江刺家(盛中)
    太 田      L、D    岡 田(協会)
    三 島       G、K    岩 動(高農)
                    島   (盛中)
                    阿 部(盛中)
      7     得点       0

 また同年1月22日第1回北日本氷上競技選手権大会が秋田で行なわれたが,盛中スケート部(平野、阿部,島,江釣子,小笠原,上野)が学校長の許可なしに出場し,秋田中と23の1点差で惜敗しているが、盛中のフェアなプレーが当時の秋田県学務部長(後の盛岡市長)を通じて筧盛中校長の知るところとなり、無断出場でしかられることを覚悟していた選手一同に予期しない賞賛が与えられたという。
岩手における初の県外遠征であった。
 このころ,仙台五色沼で第1回全国スケート選手権大会が日本スケート協会主催で開催されているが,フィギュアが中心であった。
 さらに2月5日には,盛岡スケート会主催の第1回中学校アイスホッケー選手権大会が行なわれ,盛中A・B,盛農,盛工の3校4チームが出場し盛中Aチームが優勝している。
 翌昭和4年には師範が参加し,競技場は高松池が中心となり,3種目が行なわれるようになったが,なかでも盛中はA・B・Cの3チームを出場させるという盛会であった。(当時のホッケーは6人で試合が遂行できた)また,出場選手は同じスケートで三種目に出場するという万能振りであった。
 昭和4年2月10,11日高松池での大会出場者は次のようなもので,今日の多数と比べてきわめて少数な印象であるが,熱気をおびた大会であった。
  
 ○スピードスケーティング
     (協会) 高 棒,阿 部
      (岩師) 八重島,金田一
      (岩工) 石 黒,小 泉,一条、大浪
      (盛中) 池 田,田 子,齊藤、柏葉,東条,平野,遠藤
      (県庁) 西 村,村 上
      (貯蓄) 名久井
    ○フィギュア
      (協会) 高 橋
      (岩師) 八重樫,高 橋
      (盛中) 平 野,小笠原,北 田,黒 木,島
      (岩工) 小 泉
    ○ホッケー
      岩師,盛農,岩工,盛中,(A・B・C)4校6チーム

 昭和5年1月10日には八戸で行なわれる全日本スピード競技会に出場の途中、盛中出身の今野東雄、平野栄二郎を中心とする明大スケート部の来盛があり,ホッケー戦が盛中との間で行なわれた。結果は各種目混成の明大チームであったためもあろうが2対4で盛中が勝った。また同月22日には・盛中出身の金田一貞吉,太田幸弥を中心とする慶大スケート部が釆盛し・盛中とホッケー戦を行なったが、6対0で慶大が勝っている。
 全国学生氷上競技会開催(昭和6年〜8年)

 大正14年松本市外六助でスタートした学生大会は、第2回大会よりホッケー,フィギュア、スピーが行なわれるようになったが,この学生大会が日本スケートの発展と競技スケートの確立に大きな役割りを果たしてきていた。
 第3回大会は昭和2年諒闇(りようあん)で中止されているが、第6回大会まで信州の松原湖で行なわれていたが,山中で不便なため,観衆も来ない場所であった。学達の中にはスケートの普及発達のためにも松原湖以外のスケ一ト場の出現を望んでいた当時、在京岩手スケート倶楽部の付属小出身者が、自由学園の佐藤瑞彦(元付属小教諭)からの,盛岡市発展のためにも全国的な行事の開催の必要性の助言を受けて,学生氷上大会開催の運動をおこし,来盛したことのある慶大,明大,東大などの支持を得て,第7回大会を高松池で開催することになり,関係各方面にさつそく下記の文書が配布された。


 拝啓 時下新緑の候と相成り候処御尊堂には益々御多祥之段奉賀候 陳者兼ねて御地にて
      御熱望有之候全国学生氷上競技連盟競技会は連盟委員会にて昭和6年1月4日より7日迄

    4日間御地高松池において開催の事に決定致し候間取敢えず此段御通知中上候
    尚当大会は御承知の如く回を重ねる事五,我日本スケート界の核心を為すものに御座候へは
    近時隆盛に向いつつある斯界の為にも盛岡市の為にも有意義の事と存じ候
     且つ又冬の盛岡をウインタースポーツの都と化し,盛岡を日本のサソモリッツ,ダボスと為す事
     
得候はば吾々の本望に御座候 詳細は追て御通知中上侯も一段の御援助賜度伏して懇願中上候
       昭和5年6月
                        在京岩手スケート倶楽部 太田幸兵衛(慶大出身)
               池 野 健三郎(明大出一付小出)    窪田  実 (東 大ー付小出)
                   水 原 慶 三(明   大一付小出)    今野 東雄(明 大ー付小出)
                   金田一 兵 書(慶  大一付小出)     太田 幸弥(慶 大)
                   平 野 栄二郎(明  大一付小出)     田子 康徳(明 大)


  昭和6年1月4日 第1回全国中等学校大会,岩師,盛中,盛鼻,盛工の外に県外より10校参加,
     ホッ ケー 岩師 4:0 八中 盛中 5:0 慶普
       フィギュア 黒木(盛中)6位,菊池(盛中)9位

          5日  岩師 0:3 札師 盛中10:0 盛農
           決 勝 戦 盛中 0:1札師 大接戦の末惜敗している。
           盛中メソバー 東条,黒木,内田,斎藤,菊池,宮部

      1月6日  イソターカレッジ,岩手医専外11大学参加
              ホッ ケー 岩手医専 0:26北  大
              フィギュア 今野東堆(盛中出身明大)第4位

        9日 1尺6寸(約50Cれ)の降雪で競技中止
          10日 アイスホッケーとスピードは早大,フィギュアは慶大の優勝


 この大会は盛岡にとっても,岩手のスポーツ界にとっても非常な刺激を与えることになり,一方学達にとっても初の都市での大会であり,励みになり,引続き7年,8年と高松池で開催されると,8年にはスピードの各種目に新記録続出するような発展を遂げる結果となった。 また,当時の関係者の誠意ある大会受け入れは,盛岡の人情の厚さを示し高松の氷のよさは参加選手の胸に強く焼き付けられたものであった。
 戦後4回に及ぶ国体スケートの大会運営は,恒久施設も持たないものであっても,全幅の信頼と期待の中に毎回成功している。これも好印象の中に終始した盛岡大会に参加した人々が,今日の日本スケート連盟の主脳部として盛岡や県スケート連盟に寄せる好意である。
 盛岡市民の年配の人々の思い出に残っている亀が池での氷上カーニバルは,学生大会に参加した各大学選手が趣向を凝らしてのもので,亀が池を夕刻から取り囲む黒山の市民には,仮装とスケートの妙技がはなやかなものとして今も思い出話しになっている。

 ◎昭和7年学生大会
 第2回全国中等学校氷上競技大会は,1月1,2日高松池において,岩師,盛中,盛農が参加して行なわれたが,アイスホッケーで盛岡中学は前年度同様札幌師範と決勝で対決したが5対0で敗退している。
  盛中メソバー 太田代,東条,山屋,斎藤、、金崎、吉田

 1月3日 第8回全日本学生氷上選手権大会が・岩手医専外10校の参加で,高松池で開催されたが,アイスホッケーは明大と対戦した医専は4対0で敗退している。4日からは降雨にたゝられ、10日までようすをみたが,全国的暖気に見舞われついに大会を中止する。

 1月15日 日光精銅所スケー部来盛し全盛岡軍とホッケー戦が行なわれ3対0で全盛岡敗退。

 1月17日第1回岩手県氷上選手権大会,県体協,スケート協会主催で開催、3種目競技行なわれた。

 ◎昭和8年学生氷上大会
 1月3日 降雪のため,岩手公園広場で午後1時より岩手医専外10校140名参加のもと開会式挙行される。岩手医専は早大と第1戦で0対6で敗退している。時々の降雪で悪氷となり、日程を変更しながら8日までの大会が行なわれ,ホッケーとフィギュアは慶大が優勝し,スピードは、1万メールを除く全種目に数多くの大会新記録が続出し,明大が初優勝して大会が終了した。
 昭和6年からの3年連続の学生大会には,日本ストート界の中核をなす学生が、12月20日ごろから乗りこんで,高松で合宿練習をしながら大会に備えた。今まで人家もまばらな1000メートルの山中の松原湖で学生大会を行なってきたのに比べて,県都であ。情緒豊かなまちで青春にあふれた学生時代の華であるスケートを競うことのできたのは、終生忘れることのできぬことであったろうし,なればこそ、今日の日本スケート連盟の幹部が,盛岡に人一倍好意と協力を寄せるのも当然である。大会前の合宿中には,盛中をはじめ地元各校が練習試合の機会に恵まれ、ホッケーの充実が期されたし,この大会が岩手のスケート振興に大きな刺激となり、また学生大会も以後日光・芝浦・八戸と都市で開催され,急速な発展に寄与する契機になったものとして特筆されるものである。また、本格的なスピードスケートが本県でも用いられるようになった。