The history of the ice skating   アイススケートの歴史 NO 2

 初期のスケート(明治より大正10年ころ)

 今日では交通事情も悪く,また雪も少ないので,市街地の道路を馬橇(そり)が通ることもないし子供たちがスケートで路上で遊ぶということもできないが,昔は路上が遊び場であり,下駄にカスガイという金具を二本ずつ打ってすべる者もあれば,次第にタコと呼ばれたげたスケートや,上手な子供たちはマクレと呼ばれた足高なげたスケートがげた代わりに用いられていた。
 道路上の積雪が,人馬の交通によって踏み固められたものであるから,下駄スケートでもあまり横すべりすることは少なかったが,交通量の多い路面は今日の地上散水リンクのように堅く凍っているので,すべりを防ぐために,マクレのようなスケートではみぞを掘ってあるものもあり,すべった跡にこのみぞの型が路面につくことが子供たちにとっては自慢であった。しかし田んぼなどの氷上ではこれらの下駄スケートは横すべりするので,靴スケートとも呼ばれた鉄製の真田ひもで直接靴やたびをはいた足にゆわえつける,コールタール塗りの軍艦スケートが鍛冶屋で作って売っていた。もちろん刃の部分はみぞが掘られ,氷上での横すべりはなかったし,競技スケーが行なわれる昭和初期までは,小中学生のスケートで,氷上運動会が盛大に行なわれた。
 大正5年のごろになってドイツ式と呼ぶ皮靴に取りはずしの自由な鋼鉄製のスケートが熱心なスケーターに愛用されるようになり,現在のフィギュア−スケートを,子供たちはアメリカ式などと呼んであこがれていたものである。
 つまびらかではないが明治30年ごろ,ネロリという米人宣教師が亀が池ですべり,市民を駕かしたとのことであるが,池は氷が割れる危険をおそれてか,盛岡のスケートは農学校田んぼが主スケート場で,市内小学校氷上連合運動会が行なわれた。
 組織がつくられるようになって亀が池が中心になり,運動会が競技会に発達するようになって,高松池がスケート場になってきたもので,鏡のような氷の張る池でなければ満足できなくなったのは,すべりっこ時代からスケートに本格的に発達した大正10年以降であった。
   組織作りからフィギュア興隆期(大正12年〜昭和4年)

 大正12年ごろ,太田(現盛岡市)の佐々木休次郎(宰郷)が、フィギュアスケートを用いて農学校田んばですべった。
当時のスケートは単に直線的に速くすべることだけに止まていたが,諏訪湖まで行って片足で図型を描いたり、踊るようなすべり方を研究してきた佐々木の妙技には、スケートへの新しい興味をかり立てることとなった。指導者も無く,解説書もないころの当時,このフイギュアスケートに魅せられた人々は,大正13年1月に盛岡スケート会なるものを1円50銭の会費制で会員を募集し、亀が池をリクとして発足をした。
佐々木休次郎、宮川宇一郎、金田一熙,岡田鶴治,加藤正らが中心となり、さっそく日本スケート会の大先輩である田代逸郎の講習会も開催し、これには牛塚県知事をはじめ多数の参加者、1000名以上の観衆が集まった。夜間も滑走できるよう1200燭光のアーク灯も用意されたという。
 大正14年には盛岡スケート会初代会長に鏡保之助高農校を推し,1月29日河久保子朗の講習会と講演会。30日には日本スケート会幹事の田代,丸尾の講習会,31日には東大スケート部選手3名と井口教授による,ホッケー,フィギュアの講習会が実施された。
 このころから,付小出身の村井源一(後の県氷連副会長),小泉一郎(県義)・岩動隆一(医師),今野東堆(日氷連役員で世界選手権日本選手団監督)らは佐々木のもとで,外国からの本を翻訳しながら研究しすべったもので,千鳥すべりとか、藤蔓(つる)すべりなどと称した図型を措いて練習したが、原書を頼りのフィギュアであっただけに、写真で見る通りサークルの大きさなども今日よりは非常に大きかったりしているが,そのスケート熟たるやまことに盛んなものがあった。
 また,アイスホッケーが盛岡で行なわれるようになったのは.盛岡中学出身の太田幸兵衛が慶大でアイスホッケーをやり,大正14年に盛岡中学に紹介したのが最初で,パックをステックで取り扱うだけの初歩的なものであったが,これが契機となり盛岡中学にスケート部が結成されている。
 4年後の昭和3年に太田を中心とする慶大ホッケー部の来盛には,後に明大ホッケー主将になった平野栄次郎が盛中アイスホッケーの中心として活躍し基礎づくりをしている。