The history of the ice skating   アイススケートの歴史 NO 1
  日本のアイススケートのはじまりは?

 日本にスケートがお目見えしたのは明治10年札幌農学校(北大の前身)に教師として招かれた米人)のブルックスが本国から持ち込んだのが初めてといわれている。
 だが札幌で本格的に流行し出したのは、明治24年になってからから。
しかも、そのスケート熱をあおったのは岩手出身の 新渡戸 稲造 だというから岩手県人とスケートの結びつきは不思議な因縁がある。
 明治23年ごろ 新渡戸 稲造博士が北大にスケート用具を米国から持ち帰ったといわれ、北海道、仙台の五色沼、諏訪地方に流行し、盛岡もスケートの発祥の一つといわれるように盛んな地方になっていた。
 明治末期には氷上運動会が行われ、競技会という形のものは大正10年ごろよりフィギュアの流行により行われるようになった。
アイスホッケーもフィギュアより少しおくれて日本に入り、またスピード競技も本格的に行われるようになったのは、大正12年以降で氷上運動会がスピードを競うものであった。
 大正9年河久保子朗、交野政遇によって日本スケート会が組織され、最初は主としてフィギュアの普及発達に努め、後からアイスホッケーの普及に力を注いだ。また大正14年には全国学生氷上競技連盟が誕生し、競技スケートとしての3種目に貢献し、昭和4年に結成された日本スケート連盟が純粋のスポーツ団体として今日のスケート界をつくり上げてきた。
  岩手のアイススケートのはじまりは?

 岩手県人で鉄製スケートの初乗りを演じたのは誰か。
導入説もいろいろあってややこしい。
 菅野忠五郎らが岩手県人としては元祖的な人と言えるようです。
菅野は鹿島建設の取締役や顧問を務めた人てある。明治21年盛岡中学校の第2回生です。
生前語ったところによると、彼が中学生時代、盛岡市の大沢河原教会の米人宣教師ミラーがスケートを楽しんでいたというから明治20年前後に導入されたらしい。これが数ある導入説の中で1番古い。
 ミラーがもたらした影響は大きかった。当時岩手地方の鉄道建設を担当した鉄道局技師は長谷川謹介がいち早くこの外国製スケートに目つける。スポーツマンだから余計好奇心にかられたようだ。
ミラーをくどいて鉄道工場で同型のスケートをつくる。

盛岡駅構内を流れる小川の氷でおかなびっくり練習を開始。その練習会に中学生の菅野と小岩井農場の蔵田が参加。
だが長谷川は上達しない。器用な菅野にカブトを脱いだ。あらためてスケートを菅野にプレゼント。菅野は意気揚々弟と氷上をすべりまくった。 同じ大沢河原の米人宣教師ネロリーが1番早く持ち込んだという説もある。
定説のようになっていたが、明治30年ごろの話だからミラーよりも後になる。
 このころ一条友吉も外国製を手に入れた。札幌の叔父からもらったらしい。
 さらに杉村陽太郎(盛岡出身)も明治後期の普及に関係している。
明治41年東京帝大を卒業、各国大公使館の書記官、参事官などを務めた外交官。
領事官補としてパリに勤務していた42年ころ休暇を利用して岩手県を訪れた。このとき舶来のスケート2組を県に贈り、これがきっかけになって鉄製スケートが中学生の間にも広がった。
  スケートの呼名が「フィギュア」スピードスケート」「アイスホッケー」に変わったのはいつ頃?

 大正4.5年頃になってスケートの呼名も変わった。
「フィギュア」「スピードスケート」「アイスホッケー」の用語が岩手県内でも使われだす。
 だが完全な競技としては発展しなかった。
立派なスケートを買い、本格的にやれるのは良家の息子かにかぎられていためであった。
    岩手のアイススケート

 岩手のスケートは盛岡にのみ発達し,あまり地方に普及しないまゝ今日に至っているが、昭和4年までは農学校田んぼ(現在の菜園大通り一帯)が都心のよきスケート場であったし,岩手公園の亀が池が杉木立に囲まれたスケート場であり,のちにスケートの普及に伴い・高松池が開発されるという好条件を備えていた事と,気象条件も適当に寒く,あまり雪も多くなかったということが大きな理由となっていた。
 大正12年ごろまでは,氷上運動会が行なわれていて,当時の新聞には,1月19日女子師範付属の第17回氷上運動会が高松池で行なわれ,700名の参加で52種目が行なわれたと報じていることからしても学校単位や連合組織での運動会が相当盛んに行なわれたことがうかがえる。盛盛岡スケート会は、(大正13年ごろ)数名の愛好者によって組織されたが、フィギュアの研究が中心で,岩手のスケートの歴史の中で最もフィギュアの盛んな時代といえる。
 大正14年ごろよりアイスホッケーも研究され,盛岡中学(現盛岡一高)にホッケー部が生まれ,盛岡で最初のホッケーの公式競技が行なわれたのは昭和3年である。岩師,盛中,盛工,盛農にホッケー部が作られ,昭和6年に高松池で行なわれた全国学生大会が契機となり医専,岩中にもチームができ,日本が戦争に突入し,スポーツが禁止される昭和18年までは,ホッケーの全盛時代であった
 昭和23年戦後の荒廃の中で第2回国体スケートを高松池で岩手県スケート連盟の自主運営で開催し,以後28年,33年,41年と全国高体連,国体スケートを,恒久施設の無い中で開催したことは県スポーツ振興に貢献したもので,またこの間はスピード隆盛時代で,とくに昭和30年前後の高校スピードの全国入賞,工藤祐信選手のオリンピック出場が特筆されるものである。