小澤 甚一郎氏が「正論」に投稿しました
題名は「落下傘降下で得た私の確信」
別冊「正論」遥かなる昭和 産経新聞 21.7.13発行



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新刊のため全文を紹介することが出来ませんが、前段と後段の一部を紹介します。

 昭和19年10月30日、午前10時ごろ、私は佐世保軍港上空において、二式水上戦闘機(零戦を水上戦闘機に改造したもの)による、2機対1機の編隊優劣位戦という空戦の練習をしていました。
 この練習中に、私の操縦していた飛行機の尾翼昇降舵索が切断し私は落下傘で脱出降下し、かろうじて一命を
取りとめることができました。


 これから記述することの要点は、恐怖の余り失神するにいたる利己心と、失神した後に利他的心情に変化した心理作用に対する反省から確信を基礎として、戦没された数多くの英霊の意識を思いつつ、わが国体の尊厳性についても
申し述べようと思います。

(中略)

 以上が落下傘降下という貴重な体験によって得られた私の確信のあらましですが、後日、米増分隊長から「貴様の落下傘降下は我々パイロット仲間でも二万人に一人の見事な降下だったと思う」
と激励され、失神時に眼前に現れた彼女から、病床の私に次の詩片が届けられた。

  『血に染めし、操舵桿を握り締め
    男いのちの、生き甲斐ぞ知る』

 佐世保市白南風町
   佐世保高女四年生 坂井 文子


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9月の秋空を、佐世保湾を眼下に飛ぶ佐世保空の2式水戦。
手前サー105号は平野三一飛曹長
後方サー106号機は小澤 甚一郎少尉が操縦している。小澤機の右翼端のすぐ左に見える山は鳥帽子岳
13期飛行予備学生卒業の小澤少尉は後上方攻撃訓練時に
昇降舵索が切れて、落下傘降下で生還している。
昭和19年12月、隊員が陸上戦闘機(零戦)隊へ転出するさい指揮所前での佐世保空第1分隊操縦員の記念写真撮影。前列右から2番目が小澤甚一郎少尉小澤少尉は国分基地から制空、直掩任務を行なったのち、
彩雲特攻隊の723空へ転属する

小澤 甚一郎
           旧制岩手中学(11回生 昭和16年3月卒業)
              昭和16年4月 盛岡高等工業学校(岩手大学工学部)入学 
                 (2年生の時日本発送電株式会社入社
               昭和18年卒業
              昭和18年卒業と同時に第13期海軍飛行予備学生として土浦海軍航空隊に入隊
              昭和20年6月22日 沖縄上空 32機で米軍と空中戦圧勝した
                           終戦と同時に日本発送電株式会社に復職
             昭和26年5月1日 9電力会社に分割 東北電力に所属
             通信関係業務の草分けとなり、昭和26年より東京から青森、北海道までの
                 日本初のマイクロウェーブ通信ルートの建設に従事
                   (盛岡高等工業学校2年生より戦時中も月給をもらっていた)
小澤 甚一郎氏が自主出版した著書から一部抜粋(是非クリックしてください)